2012年7月4日水曜日

キャンディキャンディのオープニングから女性心理を考える


キャンディキャンディのオープニングテーマは、今聴いてみると、なかなか興味深い名曲である。

このアニメの本放送の頃、私も子供であったため、「あー、女の子の観るアニメじゃーん」ということで、恥ずかしさもあり、すぐにチャンネルを変えてしまったものだが、この歌詞をよくよく聴いてみると、なかなか女性心理のありようとしては、かなり深いモノが感じられるような気がするのである。

今思えば、もっとちゃんと観ておけば良かった。

この子は、まず、自分の容姿が社会的に受け入れられていない、という前提でモノを考え、行動しており、そして、そういう前提で、自分は「キャンディ」という自分である、と宣言する。

実際アニメでは、いがらしゆみこ先生描く、かわいい女の子の絵で進んでいくので、特に子供には、その彼女の内面的なコンプレックスは見えにくい。

しかし、そばかすがあっても気にせず、鼻がぺっちゃんこであっても、気に入っていると開き直るその態度は、今、大人になって聴いてみると、かなりの強がりさ、を感じる。
そして、結局、彼女はどう行動するかというと、かけっこやらスキップやら、とにかくアクティブな活動をすることで、自分自身の精神の平衡を維持しているようにも感じる。

で、この曲の特徴で、心に残る部分でもあるところは、途中で転調するところである。

つまり、ひとりぼっちでいると、アクティブな活動もできないという事態に陥る。そうすると、「さみしくなって」しまうというような感じなのである。

そして彼女は、さみしくなってどうするかというと、結局、一人で鬱々とするのではなく、鏡を利用して、自分が、もう一人の自分に対して「笑いなさい」と命令するわけである。
一人で解決できないはずの状態を、さらにもうひとつの自分(スーパーエゴ?)が励まし、アクティブな活動に戻し、そして、転調した鬱展開から、また明るい彼女に戻るというループが存在することが伺えるのである。

ここに女性心理の複雑さが感じられるのである。

スーパーエゴ(超自我)
超自我は、自我とエスをまたいだ構造で、ルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想を自我に伝える機能を持つ。厳密には意識と無意識の両方に現れていて、意識される時も意識されない時もある。ただ基本的にはあまり意識されていないものなので、一般的には無意識的であるとよく説明される。理想的な親のイメージや倫理的な態度を内在化して形成されるので、それ故に「幼少期における親の置き土産」とよく表現される。精神分析学においてはエディプス・コンプレックスという心理状態を通過して形成されると考えられている。

超自我は自我の防衛を起こす原因とされている。自我が単独で防衛を行ったり抑圧をしたりするのは稀であるとフロイトにおいては考えられている。また超自我はエスの要求を伝える役目も持っており、例えばそれは無意識的な欲求を知らず知らずのうちに超自我の要求を通して発散しているような場合である。他にも超自我は自我理想なども含んでいると考えられ、自我の進むべき方向(理想)を持っていると考えられている。夢を加工し検閲する機能を持っているので、フロイトは時に超自我を、自我を統制する裁判官や検閲官と例えてもいる。
(ウィキペディア)

さて、女性というやつは、自分が美人であると認識したときに、まったく違う展開になるという例を見てみよう。
最初から自分が美人だと思っている、「魔女っこメグちゃん」を紹介しよう。彼女はキャンディとは違うのである。


まずメグちゃんの歌詞は、実に挑発的である。
子供扱いする大人の男性に対して、「子供だなんて思ったら、大間違いよ」という、もう最初から攻撃的なのである。そんでもって、「子供だと思っておられたようですが、女性としての機能はすべて持ち合わせておりますよ」というような歌詞が続き、そんでもって、彼女はどういう行動に出るかというと、涙を浮かべて、男の子をイチコロにするんだ、という歌詞になる。(なんとまあ、チョロいもんだ、という隠れた歌詞が聞こえるような勢いである。)

鏡に向かって笑いなさいというキャンディとは、まったく別次元である。

しかも、アニメの部分でも、もう一人の美人「ノン」と魔法対決で戦っている姿が映し出される。
美人の敵は美人であると、言わんばかりの展開である。

そして、魔女っ子メグちゃん最後のシメは、「あなたのココロに忍び込む」というものである。
ううん、男性向けだったのか。最初から。なんと。

メッセージというやつは、ときに誰に向けて書いているものかは、わかりにくいものだけれど、特に一人称の文章は、よく読んでみると、人間関係の関係性をよく理解できるものである。

かわいい絵にだまされちゃ、ダメなような気がする。