2013年2月17日日曜日

人間関係に潜む法則


最近、「マインド・コントロールとは何か」という本を読んでいる。一回ざっと読んで、今二周目あたり。なかなか良い本だと思う。

これは、マインド・コントロールというものをテーマに選んでいるのだけれども、実はその中身は「社会心理学」の本である。
では、社会心理学とは何かというと、「実在する他者や想像の上で他者を想定することによって、個人や集団の行動がどのようになるのかを科学的に研究する学問である。」とある。ふむ。

社会心理学は、人間集団の各メンバー、あるいはその集団の動き方を研究するものであって、自分の理解では、スポーツにおけるアスリートがセルフ・コントロールすることや、メンタルを整えるのに使うテクニックと大差ないように思える。
結局のところ、人の動きをどう科学するかということであるから、積極的に自分自身をコントロールしようとしなくても、そもそも論として、人々がその存在に気がつくか否かには関係なく、例えば政治や宗教、商売のみならず、職場や学校での人間関係に至るまで、そこに人と人の間の人間関係が存在する限り、「人間関係に潜む法則」というものが隠れていることを示唆している。

さらに言うと、これを理解することによって、他者をマインド・コントロールできるということであって、それを制している層が、実はこの世の中をコントロールしているようにも感じる。
そんなわけで、ちょっとおもしろいワードを拾っていってみたい。

1.グループ・ダイナミクス

 元々集団にはたらく力についての学問を指す言葉。何が集団に力を与えるか、どんな条件がその力を変えるのか、その力はどんな結果を集団にもたらすのかといったことを科学的に研究することを指す。
 結論としては、群集心理とリアリティの構築、つまり知覚された現実感の構築である、とある。
 ふむ、ちょっと難解・・。

 人間にとって、それが正しいか否か、というのを判断する材料というのはどこにあるのだろうか?
 理性的な人間なら、それは論理であるのかもしれないけれども、もちろん論理というのは何かの対象物があって、それに対する理解が前提であるから、一見矛盾のない、あるいは理屈として存在が可能な場合には、あるもの、ある状況を否定することはできなかったりする。そこで、他者の動きや、これまでの経験に照らしてどう動くべきかを決定しようとする。

 そんなこともあって、例えば群集心理においては、まず群衆状態が人に暗示性を高める効果を持つ。

 いわゆる「みんなやってますよ。あなたは?」というやつで、これは特に日本においては強力なプレッシャーとして存在しているようだ。
 しかし、これは日本人だから特に、ということではなく、例えばナチス政権下のドイツでは、この心理状態を上手に使う政治集会を開いた。例えば、人数に比して狭すぎる部屋に群衆を入れて、さらに熱心な支持者を最前列に配置するなどしてしたようだ。つまり、こうやって、演説や意見にリアリティがあることを、その参加者に植え付けようとしたわけだ。

 こういう環境では「集合的無知」と呼ばれる現象が発生する、とある。

 人は、同じような状況下にいる周囲の人々の中で、自分一人が逸脱した行為を避けるため、(実は誰一人として)「正しい」とは思っていない行為であっても、その場にいる全員が、そのような状況下で与えられた規範に遵守した行動を行ってしまうことを言う。
 有名な例としては、900人もの信者が集団自殺を行った、ガイアナの「人民寺院事件」では、教祖が「自殺せよ」という命令を下し、それに従った信者が多くいたため、その状況に影響されて信者は次々に自殺するという事件が起きた。

 中にはその命令に従うのがイヤだった人がいたはずだけれども、こういう例を見ると、他者と規範を共有しようという力は、人間のこころにおいては、非常に強いものがあるということがわかる。
 つまり、人間集団はある枠に閉じこめておいて、ひとつの規範を作って維持できれば、従わせるのは割と簡単なものらしい。
 しかも、おもしろいのは、それが強制されてそうなったというものではなく、各メンバーに自分自身の判断でそうした、と思わせることが可能なところがミソなわけである。

2.ビリーフ・システム

 ビリーフというのは、例えば「○○という場合」、人が「~するべき」あるいは「~しなきゃいけない」と思うこと。あるいは「○○って××だよね」と考えるパターンのようなものであって、例えば「神が宇宙を作った」「A型の人は几帳面だ」「政治家は腹黒い」「霊界がある」などが例に挙げられる。ビリーフというのは、信念と訳されることが多いようだけれども、むしろそれよりも「知識」「偏見」「妄想」「ステレオタイプ」「イデオロギー」「信条」「信仰」などを指す言葉であるとある。
 つまり、人がこう動くべき、という決定のバックヤードに存在する情報の総称みたいなものだろうか。

 時に、ビリーフシステムというのは、「○○は~すべき」という違いによって、人と人の間で衝突の原因になる。これは本には書いていない、どこかのネットに書いてあった情報だけれども、端的に理解しやすいからメモ替わりに書いておこう。

 題して「人の怒りというのはどこから来るか」
 ある人(ここではAさんとしよう)が「約束の時間には15分前に来るべきだ」というビリーフを持っていたとしよう。で、Bさんは「自分の時間は大切だから、待ち合わせの時間にはギリギリでも時間前であれば問題ない」というビリーフを持っていたとしよう。

 この二人が仕事で待ち合わせたときに、例えば8時半に待ち合わせるとき、Aさんは8時15分から待っていて、Bさんは8時29分に約束の時間に現れたとしょう。
 そうすると、Aさんは、自分は15分前からBを待っているのに、けしからんじゃないか、ということになる。仕事を舐めてるというような感情を持つかもしれない。

 Aは無駄に時間を使ったということになり、特にBがAの部下だったりした場合、何かあったら困るから、約束の時間前に来るべきだと諭すしかもしれない。Bさんがもしその話を聞いたら、そんなんだったら、最初から8時15分に待ち合わせをすればいいじゃないか、その考え方自体が無意味だ、等という発想にもなるかもしれない。
 これは特にどちらが悪いというわけでもなく、「考え方(ビリーフ)」の違いによって、人と人が衝突する例である。

 人間というのは、ひとつひとつの行動をするときに、特にひとつひとつの事象に対して「本来、人間と人間は何分前に相手と落ち合うべきか?」などということを深く考えない。
 それぞれ、自分にあったビリーフを使って行動する。

 もし、こういったビリーフを用意していないと、人間が行動するに当たっての思考量が莫大になってしまい、行動が制限されたり、状況の変化に追いつけないということが起こるからだ。
 よく哲学の本に出てくる「ビュリダンのロバ」という話がある。右にも左にもおいしそうな干し草があるのだけれども、どう行動しても量、距離ともに同じであると判断したために、どちらも選べなくて、結果、餓死してしまうという間抜けなロバのことだ。
 そこで、人は例えば、包丁を持つとかするとき、右利きだから右手で持つとかいう決定は無意識下で決定する。

 それと同じように、例えば何か行動を決める時に、右利きの人が左手で包丁を持つかどうかというと、これは慣れていないからやりづらいと言うこともあるし、さらに言うと行動以外に信条がころころ変わるやつというのは、実に他人から見ると信用のおけない存在と見られやすいということもある。

 昨日まで巨人ファンだったのに、今日は阪神ファンとかいう人がいたとして、同じ巨人ファンの友達がもしいたとしたら、「何だよアイツ、わけがわからん」ということにもある。

 よって、人は「僕ってこんな人だよ」ということを、自分自身に納得させ、さらに言うと「僕ってこんな人だよ」ということを他者に伝えて、人間関係を円滑に進めようという習性が構築されてくるようだ。

こういうビリーフというのは、脳内でお互いのビリーフが矛盾しないようにシステム化するようだ。ここでできあがったシステムのことを、スキーマ、と呼ぶとのこと。

3.コミットメントと一貫性

 人間というのは、自らの行動の一貫性というものに強いこだわりがあるようだ。
 ここでは、自動車販売における「ロー・ボール」というテクニックが紹介されている。最初、だれでも承諾してくれそうな小さな要求を出して、それを承諾させてから、徐々に新しい要求を加えていって、最終的に計画通りの要求を飲ませるというものだ。

 新車のディーラーは、最初はとにかく破格に好条件の話で客に対してアピールする。それによって、客はその極端によい値段で買うことを決定し、契約書にサインする。その後、ディーラーは客が付いている思っていたオプション、たとえば、エアコンだとか、ステレオであるとかを追加請求する。しかも、その際に上司に電話で連絡したりして、それをサービスできないことをチェックし、自分の責任ではないというポーズをとって、客からの印象を悪いものにならないように注意しながら、値段をあげていく。

 人は最初に「買うことに決めた」という自分の意思表示を、自らその条件が変わったからといって、一度決定した意思表示を変更したくない、という心理が働く。
 例えばアメリカでは、献血推進のための署名活動を行ったら、献血協力者が増えたという応用例もあるとのこと。

 その理由というのは、人というのは「自分はこういう人間」という立ち位置を社会において維持するのに、かなりの努力を払っていると感じられることだ。
 だから、例えばグループ・ダイナミクスや、他者から合理的(と思えるビリーフ)と注入されると、後は自縄自縛となってその人を拘束する。この拘束する力というのは、特に知的能力的に劣っていない人であっても、引っかかってしまうものらしい。

4.実は他にもいっぱいいろいろあるけれども・・・。

 あるいはその知的能力が高いが故に自分自身を納得させる言い訳みたいな言葉を紡ぎ出して自分自身を追い込む、あるいは組織や上司、社会の流れに流されやすくなってしまうことも多々ある。この本にはその名前は書かれていないが、まさにオウム真理教に高学歴者が沢山いたことが、その証左であるのかもしれない。
 常に自分自身のなかにあるビリーフが正しいのかどうか、逆に流されていないかを検証する習慣というのは持っていないといけないのかもしれないね。


グループ・ダイナミクスや、コミットメントをさせるところなど、心理学をうまく応用しているよね?
そして、新しいビリーフを注入するというわけ。

それはそうと、餃子の王将の餃子はなかなかにおいしい・・。

※参考文献


※こちらもおもしろい。

「信頼できない話は大声でやって来る」 科学者、菊池誠さん<「どうする?原発」インタビュー第6回>(3/4ページ) | ニコニコニュース http://news.nicovideo.jp/watch/nw353113/3

2013年2月11日月曜日

千葉をドライブ



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ちょっと足をのばして平砂浦まで。
 
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さすがにここまで来ると海がきれい。サーフィンしている人も多かった。
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ご主人を待つ犬。風に吹かれてちょっと寒そう。


連中の中日、一人でちょっと千葉にまでクルマで足を伸ばすことに。

気がついたこと・・。

結論:都会を脱出するのは、公共交通機関の方が良いかも。笑

やはり、トレイン(あるいは飛行機)&レンタカーの旅が国内を動くのにはベストなのかなあ、と。

ある程度、予想は付いていたけど、連休は中日だからと行って千葉方面に出るのは、やはり渋滞がきつい。

千葉はアクアラインができて以来、クルマの往来がしやすくなった一方で、房総半島の道路のインフラが、その流入するクルマの量をさばききれない感じがする。

また、その車の移動の性格が朝ぐらいに遊びに来て、夕方帰るというパターンのものが多くなったせいか(今回、自分もその中の一台だったわけだけれども・・) ある特定のところにクルマが集中してしまう。

また、有料道路があるのだけれども、途中で二車線が一車線に合流するというところがいくつかあって、そこがボトルネックになって、これまた渋滞を引き起こすという感じでもある。

特に行っちゃ行けないところは、 富津館山道路のハイウェイオアシス富楽里。ここはクルマをプールできる広さが全然ないのだけど、「満車」っていう標識が見あたらない(あるの?)ので、どんどこクルマが入ってくる。中に入って出るだけでも20分以上かかってしまった。


まあ、そんなこんなだけど、それでも東京を出る、帰る時間をうまく調整すればいいのかもしれない。場所としては、それなりにのんびりとしていいところです。

特に館山は、わりと好きな場所。城山公園は春になると、とても桜がきれいなところだよ。

その頃には、おばちゃん達がでかいバスで乗り付けるので、すごくにぎやかになるのでした。

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館山港という漁港。館山城が見える。(お城のふもとが城山公園ですよ)