2014年3月27日木曜日

「狂う」ということについて考えてみた。


そもそも「狂う」とは何だろうか?ぱっと考えてみれば、狂うとは、その主体の行動が、きちんとした因果関係に基づかなくなる、ということではないだろうか、と思う。

例えば街で誰もいないはずなのに一人で何かに対して怒っていたり、ブツブツ言っている人がたまにいるけども、そういう人は「狂ってる人」として扱われる。
しかし同じように携帯電話を使いつつ何か(例えば商取引などで)それに対するわかりやすい理由などの単語を織り交ぜながら怒っていれば、(どうして金を払わないんだ!的な。)それは他者から見て狂っているとはみなされにくいだろう。ああ、何かお金のやりとりで不実なことが起こったのだな、という予測が立ち、これが因果関係だと推測できるからだ。

 さて、よく天才と狂人は紙一重とされるけれども、それはどちらも一般の人々から見て、原因と結果の因果関係が捉えにくいからだろうと思う。狂人は妄想、つまりこの世と乖離した原因に基づいての行動を起こすためがゆえに狂っているとみなされ、結局、何を生み出すことできずに終わるわけだけれども、一方で天才は常人の理解を超えた法則の知見に基づいて何らかの問題に対して回答を出すため、一時的には狂人と同じような扱いをされることはあっても、それは単に一般人の理解を超える部分では自然法則に合致しているから、発明や発見、あるいはその他社会に対する利益を生み出し得る存在となる。

 ところで自分が小学生の時、父が手製の童話を作ってくれたことがある。主人公はハチとハエの二匹。二匹はとても仲良しなのだけど、ふたりでちょっと遠くに遊びにいったついでに人間の家の中にとじこめられてしまうアクシデントに出会うという、おはなし。

 そして、頭のいいハチは、できの悪いハエにこう言う。

 「いいかい、こういうときは明るいところが出口なんだよ?」

 そう言って、明るい方向に向かって飛んでいくものの、そこにはよく意味のわからない存在である窓ガラスのおかげで、外に出ようにも、どうしても外に出ることができない。
 そこにはもう外が見えてるのに、どうしても出ることができない。

 そんな様子を見ていたハエは、あまり頭は良くないのだけど、とにかく暗いところにも色々と突っ込んでいく。あちこちぶつかったり、頭のいいハチに「そんなところに行ったって外に出られっこないよ!」などと言われつつも、煙突の通路を上っていって、ついにはハチを連れて外に脱出する、というストーリーだ。
(初稿では、ハチはとうとう出られずに死にました!笑 ちゃんちゃん!だったような気もするけど、よく憶えていない。)

 ここで思うのは、仮に狂人が狂人であっても一種のランダム攻撃(気合いともいう)が功を奏して、考えの浅い知見を突破することもあるんじゃないの?という、今、大人になった自分を「うーむ」と唸らせる部分が確かにあるのだけれども、その時はどうしても感情移入しにくい存在のハエが栄光の主人公ということで、自分のほか、母や弟からも、あまり良い評価を得られなかった父がいたのだった。

 単に本当に頭が狂って壊れて完全にクルクルパーになるのはよくないけれど、浅い知識に最後までこだわって終わりになるのもよくないんじゃないの?
 たまには動物的なチャレンジ精神も必要かな、なんて思わわせるエピソードだったりする。