2015年1月18日日曜日

引っ越しして、土地について考えてみた

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 去る11月、10年以上住んでいた部屋を引き払って引越をした。と言っても別に感傷的にはならなかった。何故ならばフロアを移動しただけで同じ建物内で移動したからだ。
 
 だから部屋の広さは前と変わらないし、窓から見る景色もあまり変わらないし、出勤して乗ってるエレベータも同じだし、定期もそのままだし、買い物に行くスーパーもそのままだ。つまり生活感は変わらない。家に帰るときにエレベータで押すボタンが違うだけだ。
 
 それでも、引越はとても気分転換になるものであって、それまで何気なく気になっていた経年劣化による配管の劣化による水漏れとか、あちこちの汚れは一掃されたし、一回丸ごと引っ越しすることによって、かなり不要なものをたくさん捨てることができて、身軽になれた。敷金もそれほど目減りせず、リフォームするよりお金もかからなかったのだから、良い結果だったと思う。
 
 もう自分は年齢をかなり重ねてしまっているのだけれど、家を買うということについては、どうも消極的なことしか考えられなかった。
 本来なら家庭を築いて家を買い、子供を育てながら住宅ローンを払うのが、日本の男として生まれた人生の本来のコースなのであろうけれども、ちょうど20年前の阪神大震災の、あの高速道路が倒れた写真を見て、それから睡眠が浅いせいかどうなのかはわからないのだけど、巨大な建物が壊れて崩れた夢を見ちゃったりなんかして、深層意識的にどうも巨大災害が気になっている自分がいる。
 不動産を持つっていうことに関して本来的に臆病なのかもしれない。
 
 実は僕の父親は、僕が中学生のときに家を買ったことがある。それは地方の一戸建て、広くて快適だったけど、結局そこも3年間しか住まなかった。地方に家を買った理由は、母の父、つまり母方の祖父が寝たきりになって介護が必要になったためで、父は一種のプレゼントだと言っていた。父自身は東京に留まったまま、その家にはたまにしか帰らず、やがてその母方の祖父も亡くな、結局一家で東京に戻って賃貸住まいに戻ることになった。
 
 一方で、よその家庭を眺めていると、バブル前からバブル期、そしてバブル崩壊に至る時期、その地域に彼らの親が一戸建てを建てて暮らしていたたちは、割と高度成長期の地価高騰によってキャピタルゲイン(資産の値上がり益)による利益を得ていたようだった。
 
 もしも日本の国がずっと成長していれば、そういった日本の成長に合わせて資産価値が上がることによって、家を借金で買って、日本の国が成長することによって土地の価値が増し、その家を売却することによって資産運用に、最後おつりが出て完了するという、とても美味しい運用ができた。実際にその成功体験の記憶がまだ結構、世の中に残っていたりする。
 
 ところが90年代のバブル崩壊以降、この流れは完全にとまってしまった。土地の価値が上がらなくなってしまったのだ。よって、ここで土地によるキャピタルゲイン狙いはできなくなってしまったのだった。
 
ここで僕が家を買いたくない理由を並べると:
1.大地震のリスク(阪神淡路、東日本大震災を考えると、だいたいこの国では20~30年に一回、どこかに大災害が来るようなリスクがあるような感じ。戦争などもこの範疇に入るのかもしれない。)
2.父が地方に家を買って住んでみた印象から、ある土地の人間関係に縛られると、とても暮らしづらいという印象があること。都内だったら移動して人間関係のリセットが簡単、というか、そもそも自分で人間関係を構築していかないとかなりさびしくなるのが東京という場所柄。それに慣れちゃっている。
3.これからの人口減少による不動産価値が下落するだろうという自分なりの予想があること。但し、中国人などの外国人が資産運用目的で、土地を買いあさってくるかもしれないので、こと高級物件に関しては、ちょっと意味合いが違ってきてくるのかもしれない。
4.ただもう日本は、本来的にもうすでに住宅建築を必要としていない。それは今の空き家問題として顕在化してきているから、早晩、特に日本の中古住宅市場は崩壊するだろうと思っている。そしたら、割安になった物件を買ってもいいかなとも思っている。
5.技術の進歩による建築技術の発展。これによって容積率が大きく内装も近代化した物件が今後たくさん登場することが見込めるため、古くてアスベストまみれの建物の価値は競争に負けて、今後も価値がすごく下がっていくと思われること。
 
後は、買いたくない理由とは別に、将来はすでに既定路線になっている部分もあるので、それを、今の時点でまとめてみると:
 
1.今後、民法の大改正が待っているらしい。
2.外国人(特に中国人)が日本の不動産を買おうとしてる。
3.日本の高齢化がますます進み、高齢者が持っている物件が塩漬けになっている。
 
 安倍政権になる前から民法の大改正があるという話はちらほらあって、おそらく憲法改正とかと同じ流れで考えているのだろうけど、日本の社会の形を大きく戦後体制から変えていこうという発想の下に動いている一環なのだろうと思う。で、結局、おそらくその方向軸は、私権の制限だろうと思うのね。
 
 日本の土地法制は、戦後、圧倒的に弱者だった借り主を保護するためという事情があったこともあって、とても土地建物(特に建物)の借り主に有利にできている。しかし、そのせいで特にバブル期には土地への居座りとかが結構起こっていた。これはかなり土地の効率的な開発を滞らせる原因になるから、何かしら国家権力や行政の力が行使しやすい方向になっていくような、そんな感じがする。
 その後、バブル期には、その情勢もあって大きな不動産物件をたくさん作ろうとした。しかし、それには広く土地の形も整理され、そして権利的に整理された更地が必要になり、そこにお金が集まったことで「地上げ屋」がたくさん生まれた。当時のマスコミは、その地上げ屋のバックにいたのが暴力団だったりしたことが多かったこともあって、徹底的にそれを叩いていた。
 そうしたことで、うまく土地の形を整理するという職業の人は、世間的には悪いやつとして扱われることになった。地上げ屋のターゲットになった方も、もうちょっと居座れば、自分の土地が高く売れるだろうという目論見もあって、結局、双方がこのチキンレースに勝つことができず、結局、バブル崩壊という喜劇によって、結果、ヘンテコリンな地形土地利用の建物ばかりが東京にあふれることになってしまった。
 
 しかしあれから幾年月。そこに住んでいた人たちも歳を取って亡くなり、日本の都市部の土地には、権利的にかなり断片化されたままになって、誰が持ち主なのかすらもわからないという状況になっている。おそらくこのままだと、さらに少子高齢化の影響もあって地権者が誰かもわからず、細切れの権利関係が複雑になっていって土地が死蔵されるのを、強い政治力を持ってる金持ちたちがぼんやり指をくわえて見ているとは思えない。
 さらに景気対策として、資産家や外国人が資産として売買できるような物件を日本の中で揃えていくには、今ある、この細切れの土地の権利関係をすっきりさせ、都市計画を仕切り直して、使いやすくて資産価値のある場所にしていく必要から、法改正の話が出てくるはずだ。
 何が言いたいかというと、日本の土地のデフラグが始まるだろう、ということだ。
 
 他にも災害対策の必要性という部分もある。最初はマスコミでそのことを前面に出してくるだろうと思う。
 そして結果的には、細かい木造住宅みたいなのは都市から一掃され、道路が整備され、みな巨大な建造物が林立するような町並みに変わっていくだろうということ。そうなると、今、半端な家を買っても30年後に、そういった巨大なタワーマンションとの価格競争になる以上、どうみても資産形成上は不利、ってことになるような気もするのだよね。
 
 さらに言うなら、国を運営する人たちからみたら、日本の資産をいわば、オリンピックでも何でも使って「近代化」させない限り、アジア地域の経済的な中心地としての位置を保てないという側面もある。
 すでに中国を中心とするアジア地域の都市は、人口的には東京よりも巨大なところがあるし、東京より高い建物をばんばん建てている。そういったところよりは、政治の安定や個人の権利を保障した法制度を持っているというメリットのある国の都市として、魅力的には映るけれども、一方でぼろい建物で、しかも巨大地震が来てすべてが崩れるかもしれないという形にも見える。
 
 日本の金持ちのみならず、世界の金持ちが投資先を探しているから、その趨勢にはおそらくこの国の都市も抗えない、けど、それによって逆に美しくて機能的な、超先進的な都市に変貌するチャンスになるような気もしないでもないのだけど、どうだろうか。

2015年1月3日土曜日

2015年 あけましておめでとうございます。

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雑司が谷の大鳥神社

 さて、お正月に書くべきことは「今年の抱負」だろうと思うので、それを考えてみよう。

2014年は、平均して見れば、なかなかに良い年だったと思うのだけど、一方で課題もあった。本当に早い毎日でもあって。手術もしたし、仕事ももちろんがんばったし、引越もした、ひとつの区切りになる年ではあったのですよ。
まあ、仕事ができて、ご飯を食べるだけなら、このままでも良いのだけど、それだけじゃいけないな、なんて思う日常が、今年の後半だった。

そんなモヤモヤしてた今年の後半、最後の12月に友人たちと約束してた旅行に出かけたのが、広島だったのだけど、やっぱり普段と違う場所で違う行動に出る、というのは色々と発想や気分転換になった。
前回のお正月のキーワードが「仕事は神事」であるならば、今年のお正月のキーワードは「練度というパラメーター」じゃないかと思う。

広島から呉に向かって、色々と見て回ってまず思ったことは、この日本の歴史においては、今も連綿と明治以来続く、日清、日露、そして太平洋戦争、高度成長期に流れる歴史が一本の線なんだなっていうこと。
今僕らが生きている日本の社会っていうのは、1945年に焼け野原からスタートしているような、それ以前の記憶を無理矢理に忘れようとしているようにも見えるけど、今、豊かなこの社会の実現がいきなりできたわけではなくて、それ以前にあった人々が持っていた、高い練度が実現させていると思うのだよね。

それはつまり、いみじくも日本の発展を支えたのが、戦前までに培った戦争のためのテクノロジーやロジスティックスなど、さまざま能力を継承したこと。呉に行って大和ミュージアムに行くと、いかに戦艦大和の建造技術がその後の造船業や重化学工業の礎になっていったかがわかるし、自動車も、カメラも、Made in Japanを支えたのは、明治以来、戦争に鍛えられた技術の数々であったりする。あとは戦争技術ではないけど、新幹線技術だって、その源流は満州における特急あじあ号にあったりもするよね。

戦争が起こるから科学が発展する、という説を、たまに言う人もいるのだけど、もちろんそれはおかしくて、例えば広島に原爆が落とされなければ20万人以上の人々が死なないで済んだ。もし、それによって亡くなられた人たちが生き続けていたら、もっとさらに今よりもその分だけ進んだ社会を実現できたはずだからね。この政治的、軍事的な失敗によって、きっと多くの天才をも失ってしまったと思うよ。

この社会において、豊かに暮らそうと思えば、富を生み出さなければならないのだけど、その富は高い練度、つまり理論と実践とそれによって培われた高い経験値、から生まれる。
今、社会は経済成長をさせるためにアベノミクスで大胆な金融緩和をやっているのだけど、この政策では簡単には景気は上昇しないと思う。実はお金は社会の発展には二次的な要素でしかないから。人が動くにはカネが必要だけれども、カネをかけて何かをするという計画、あるいはカネをかければできるっていう投資対象物(ヒトやモノ)がいなければ、かけたカネが無駄になるから、結局、投資や発展には向かわない。物価が上昇する分、中間コストの圧縮とか、ロジスティックスの効率化は進むかもしれないけどね。

今の技術だと、いくらお金をかけても、どこでもドアやタケコプターは作れない。
景気が良くなるとすれば、社会が次の段階に移行する時に良くなると思うんだ。

いずれにしても、少しでも練度を高めて、社会に貢献するとともに、自己実現を図る。結局は抱負というか目標はそこに行き着くわけだけれども、まずはカラダとアタマをめいっぱい使い切る、ということを目標にしたいと思った。

望むべくは、そこで新しい何かに出会えるといいな。