2014年4月3日木曜日

増上寺と春

IMG_0330[1]
近所のビルの屋上から、東京タワーと増上寺。

IMG_0326
お地蔵さんたちと桜。

IMG_0325
お寺の鐘と桜。


ある春の日、桜の見える近所のビルの屋上で、身近な人たちとお弁当を食べた。
そして女性たちがお互いケータイで写真を撮りあう姿を眺めていた。はい、ポーズ。


あとでふと思い出したりするのかな?そんな一日。

2014年3月27日木曜日

「狂う」ということについて考えてみた。


そもそも「狂う」とは何だろうか?ぱっと考えてみれば、狂うとは、その主体の行動が、きちんとした因果関係に基づかなくなる、ということではないだろうか、と思う。

例えば街で誰もいないはずなのに一人で何かに対して怒っていたり、ブツブツ言っている人がたまにいるけども、そういう人は「狂ってる人」として扱われる。
しかし同じように携帯電話を使いつつ何か(例えば商取引などで)それに対するわかりやすい理由などの単語を織り交ぜながら怒っていれば、(どうして金を払わないんだ!的な。)それは他者から見て狂っているとはみなされにくいだろう。ああ、何かお金のやりとりで不実なことが起こったのだな、という予測が立ち、これが因果関係だと推測できるからだ。

 さて、よく天才と狂人は紙一重とされるけれども、それはどちらも一般の人々から見て、原因と結果の因果関係が捉えにくいからだろうと思う。狂人は妄想、つまりこの世と乖離した原因に基づいての行動を起こすためがゆえに狂っているとみなされ、結局、何を生み出すことできずに終わるわけだけれども、一方で天才は常人の理解を超えた法則の知見に基づいて何らかの問題に対して回答を出すため、一時的には狂人と同じような扱いをされることはあっても、それは単に一般人の理解を超える部分では自然法則に合致しているから、発明や発見、あるいはその他社会に対する利益を生み出し得る存在となる。

 ところで自分が小学生の時、父が手製の童話を作ってくれたことがある。主人公はハチとハエの二匹。二匹はとても仲良しなのだけど、ふたりでちょっと遠くに遊びにいったついでに人間の家の中にとじこめられてしまうアクシデントに出会うという、おはなし。

 そして、頭のいいハチは、できの悪いハエにこう言う。

 「いいかい、こういうときは明るいところが出口なんだよ?」

 そう言って、明るい方向に向かって飛んでいくものの、そこにはよく意味のわからない存在である窓ガラスのおかげで、外に出ようにも、どうしても外に出ることができない。
 そこにはもう外が見えてるのに、どうしても出ることができない。

 そんな様子を見ていたハエは、あまり頭は良くないのだけど、とにかく暗いところにも色々と突っ込んでいく。あちこちぶつかったり、頭のいいハチに「そんなところに行ったって外に出られっこないよ!」などと言われつつも、煙突の通路を上っていって、ついにはハチを連れて外に脱出する、というストーリーだ。
(初稿では、ハチはとうとう出られずに死にました!笑 ちゃんちゃん!だったような気もするけど、よく憶えていない。)

 ここで思うのは、仮に狂人が狂人であっても一種のランダム攻撃(気合いともいう)が功を奏して、考えの浅い知見を突破することもあるんじゃないの?という、今、大人になった自分を「うーむ」と唸らせる部分が確かにあるのだけれども、その時はどうしても感情移入しにくい存在のハエが栄光の主人公ということで、自分のほか、母や弟からも、あまり良い評価を得られなかった父がいたのだった。

 単に本当に頭が狂って壊れて完全にクルクルパーになるのはよくないけれど、浅い知識に最後までこだわって終わりになるのもよくないんじゃないの?
 たまには動物的なチャレンジ精神も必要かな、なんて思わわせるエピソードだったりする。


2014年2月9日日曜日

すごい雪

昨日。東京はすごい雪に。

IMG_0245
すごい。雪国になった。

IMG_0246

かわいいカエルちゃんの傘を持つ幼児ふたり。

奇声を上げつつ、雪だるまを足蹴にして愛でている。すごい楽しそう。

おとうさんは「やめろ(#゚Д゚)ゴルァ!!」と言っていたけど、おかあさんは「いいんじゃない別に?やっちゃえやっちゃえー」と言っていた。


2014年1月22日水曜日

人生どうする?

「チェシャにゃんこちゃん」とアリスは、ちょっとおずおずときりだしました。そういうよび名を気に入ってくれるかどうか、さっぱりわからなかったからです。でも、ねこはニヤニヤ笑いをもっとニッタリさせただけでした。「わーい、いまのところきげんがいいみたい」とアリスは思って、先をつづけました。「おねがい、教えてちょうだい、あたしはここからどっちへいったらいいのかしら」

「それはかなり、あんたがどこへいきたいかによるなあ」とねこ。

「どこでもいいんですけど――」とアリス。

「ならどっちへいってもかんけいないじゃん」とねこ。

不思議の国のアリス
Alice's Adventures in Wonderland
ルイス・キャロル 著


 ちまたでよくきく言葉なのだけど、「オレ、この後どうなるんだろう」みたいなこと、よく言う人がいる。っていうか、自分も昔、よく言っていた。

でも、ある日思ったんだよね、未来はどうなるんだろうと思っていても、自分で動かない限り何かに流されてしまって、ただ人生、人のいいように流され続けるだけというか。

だから、自分で決めないといけないのだよね。
 世間には他人の生き方について、あれこれ講釈をたれる人がいっぱいいるのだけど、結局は自分で考えて自分で決めないと、やっぱりどこか納得できないものになってしまうはず。

ただ自分で決めるというプロセス、自分のものの考え方って、自分ですべて思いついたように思っていても、実は昔一緒にいた人の行動をコピーしていたり、本を読んだりしてその言葉が影響していたり、外部から吸収されたものが深層意識に沈んでいて、それが「なんとなく」今の行動を指示していたりする。

とにかく、自分がその行動を何となく選ぶとき、それがいったいどこから来たのだろうか?って考えてみるのは、とてもおもしろい。

嫌いな人への反発っていうのはすごくあると思うのだけど、反面、その嫌いな人と同じようなことをしてないか、あるいはそのせいで本当にやりたいことが何となく億劫になってできなかったりしないだろうか?
でもそれは、単に大した手間ではないけれど、恐怖心の刷り込みみたいなもののせいでできないのかもしれないよ。
ならば、それは克服すればとても気持ちのいいことかもしれない。

とにかく、自分自身が何で今それを選んでいるかということを、ちょっと一回自分でおさらいしてみて、何か澱んだ感じがしたら、それはおそらく克服するべきものじゃないかと思ったのよね。

で、「こうしたい」って決める、みたいな。

まとまりませんが。

2014年1月19日日曜日

IT、SNSで人は幸せになれるだろうか

 


 プラトンの『パイドン』ーーー(中略)ーーーには、エジプトでのプロメテウスとの同格神であるトート神についての、愛すべき神話がある。古いエジプト人の言いかただと、書いたことばを指す用語は、文字どおりには、”神々のことば“である。トートが、文字を書くという彼の発明に関して、タムス神と議論している。タムスはアモンとも呼ばれているが、この神々の王はトートに、左のように文句をつけている。
 このおまえの発見は、学ぶ者の心に忘れやすさを作り出してしまうであろう。なぜなら彼らは、自分の記憶を用いなくなるであろうから。彼らは外部なる書かれた文字を信頼し、彼ら自身で思い出さなくなるであろう。おまえが発見した特効物は、記憶のではなしに回想の助けであり、おまえは弟子どもに真実ではなく、真実の類似物を与えるに過ぎない。彼らは多くのことを聞く者となるであろうが、何事も学ばないであろう。彼らは博識のようにみえるが一般に何ごとも知らないであろう。彼らはうんざりさせられる仲間となり真実のない知恵をひけらかすことになるであろう。

「エデンの恐竜」 第8章 脳の未来の進化(カール・セーガン著)

人々の社会の発展によって、ついに人類は、インターネットという、世界の情報をほぼ一瞬で手に入れるという革命的な道具を手に入れた。文字どおり地球の裏側の人の考えが、データ化されていさえすれば、例え街中でも手のひらの上の小さなコンピュータで手に入れることも可能になったのだ。

しかし一方で、そのことが今の社会に生きる人たちの情報が、あまりにも強力に処理され、人々はそれぞれ自分自身の社会への影響力というものが簡単に数値化されてしまうということにもなった。ものの考えはいくらでも伝えることはできるようになったのだけど、自分自身から紡ぎ出される自分自身の考えというものが、さして社会において重要視されなかったり、あるいは自分の意図しない無邪気な行動が多くの人からの大バッシングを呼ぶという、こんなはずじゃなかったという状況を引き起こしたりもするようになった。

神話では、プロメテウスは火だけではなく、文字や数字を与えたとされていて、そのおかげでひどい目に遭う。またゼウスが神々よりも人間が強くなることを恐れ、災厄をもたらそうとしたりもするそうだ。

技術というのは諸刃の剣であって、それ自体は無色透明で、文字や炎もそうであるように使い方を誤ると災厄をもたらすもの。

しかし一度得た技術は、後戻りをすることなく、日々進歩を重ねられていく。あるいは何かのきっかけで文明が退化するということもあるのかもしれないけれど、結局は、進歩をさらに進め、よく理解して、きちんと向き合ってうまいこと使いこなしていく、というのが最善の回答じゃないかと思った。

2014年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうごさいます。
今年も家族で初詣に築地本願寺へ。

帰りに有楽町まで皆で歩くことに。

IMG_0196

銀座と日の丸と。
周りはブランドショップがたくさんある。

IMG_0194 

歌舞伎座。昨年は工事していたのだけど、きれいになってさらにオフィスビルもすごいのが建った。


・・2014年。昨年末に見てきた遷宮後の伊勢神宮を見てみたり、最新の新幹線に乗ってみて感じるものがあった。

その中で人の仕事の本質は「神事」なんじゃないかなと思ったのね。

日本人は自然と調和して農作業や漁業、あるいはサービス業に従事してきたわけだけど、そこには連綿と続く連続性と自然との関わり合いや、時に村社会とも批判されるチーム作業が存在してきた。で、そこにはそれなりの美学が存在し、必要とされたんじゃないかと。

例えば、仕事に関する知恵やノウハウを大事に継承することもそうだし、いわゆる一時の金儲け主義、あるいは逆に吝嗇に陥らず、長期的な視点に立って、適切なところには適切なコストをかけることができるというのもひとつの美しさかなと。

そんなわけで今年はそんな色々と美しさを念頭において考えてみたいと思う。

2013年11月4日月曜日

【映画】スティーブ・ジョブズ



実は、この映画「スティーブジョブズ」には批判も多いことは知っていたので、あまり期待しないで観に行った。 しかし、役者たちも実在した人物にすごい似せようとする努力もしているし、時代感が絵としてうまくまとまっていて、それを目で追うように眺めているのが楽しくて、結果として映画としては楽しめた。

 物語前半、70年代のアメリカの風景。強国だったはずのアメリカにはどこか閉塞感や空しさが漂い、美しいけど、どこかもの悲しい、軽い絶望の世界でもあった。舞台は中でも自由な雰囲気の西海岸。そこにはLSDなどのドラッグの存在もあって、ジョブズもそれを手にするシーンがある。
 ある日、ジョブズが仲間たちと木漏れ日の光の美しさを堪能して、その後、「なにかを見る」シーンがあるのだけど、ひょっとしたらLSDを使っていたのかな、と思える部分である。

 LSDと言えばティモシー・リアリーなのだけど、彼はLSDを使った「回心(宗教的に感じる心の大転換)」によって、刑務所の受刑者の再犯率を下げようとしていたことがある。つまり何か、人生観を根底から覆す何かの精神的な体験をすることで、新しい人生を切り開くというやり方なのだ。もっとも、今はそんな薬物で精神そのものを乱暴かつ強引にいじくり回す方法は、法で禁じられている。

 この映画を観ると、あの日、ジョブズが見ちゃった、あの「なにか」は、こういう、あの時代特有の方法で得たものなのかな、と思ってしまったりもする。

 さて、この映画、「あれ?禅は?ピクサーは?NeXTの話はこれだけ?」とツッコミどころは満載ではあるものの、そこはまあ、それとして、ああここが違う、これもなんかおかしいと思うより、あの時代から今の時代に続いているんだという、トムハンクスのフォレストガンプ的な楽しみ方が正解だと思う。

 映画「フォレストガンプ」は、アメリカの一般人の歴史をなぞって自らの人生を振り返る楽しみがあるようだけれども、時代も違うし、アメリカ人ならぬこの身には、その映画を観るとき、自分の人生には適用できないというちょっと諦めにも似た感情が漂う。
 しかし、この映画「スティーブジョブズ」なら、いわゆる日本のパソコン少年にも、ちらっと出てくるアップル2の当時のライバル、コモドールのPETなどを見て、「ああ、あったよねー」「昔読んだマイコン雑誌に(特に月刊アスキーとか)載ってた広告や記事のアレだ!」という、今となっては懐かしい時代を思い出させるとともに、その時代からずっと、いろいろなパソコンやらデバイスやらが、人々の試行錯誤を経て、連綿と、今現在にそのままつながっていることを実感できる。(とは言え、潰れた会社のいかに多いことよ・・)

 今の日本も、70年代のアメリカのように、将来にどこか天井を感じて絶望感があるという意味では共通しているところがある。だからジョブズがテクノロジーで、あの日見た「なにか」を実現するために試行錯誤し、製品を作り出し、悪戦苦闘していく姿は、例え映画という現実に似た虚構であったとしても、色々と何かを感じるものでもある。

 そして人々が見ている将来の夢というのは、どれも儚いものが多い。
 しかし、どっこいムーアの法則だけは順調に適用されるという奇跡は続いていて、かつそれが時代を紡いでいることに思い至ると、妄想の産物であるはずのスタートレックやHAL9000的な世界が今後待っているかのようでもある。

 それより今あるもの。それはあの時あったものが元になって、今あるなあ、みたいな。
 自分の人生はどんなだっただろうか?


おまけ:
 この映画、彼の相棒ともいうべきもう一人のスティーブであるウォズニアク氏のいい人ぶりが、なんかほっとさせられる。ジョブズがわがままでイケメンでかんしゃく持ちののび太くんなら、ウォズはおっとりとしたドラえもん(四次元ポケットの代わりにすごい頭脳で、ある種の妄想を現実に動くロジックにしてしまう)のようでもある。

 

 かつてウォズニアクは米国でフェアレディZのCMに出ていたのだけど、チラっとでもいいから、映画の中で、あの「Z」を見たかったな。ここ、日産の広報が、どこかがんばれるところがあったんじゃないだろうか(笑)