2012年3月30日金曜日

コミットメントと一貫性と、そこからの脱却について


 自分の大好きな本のひとつに、ロバート・チャルディーニという人が書いた「影響力の武器」というものがある。
 この本を著すにいたっては、著者自身がいつもカモにされていたことがきっかけであったようだ。この本の中では、社会に色々とはびこる心理的なプレッシャーには、どういったものがあるのかというものが、カテゴリ分けされ、分析されている。
  さて、そのカテゴリ分けの中には「返報性」とか、「社会的証明」とかがあるのだけれど、ここでは「コミットメントと一貫性」を紹介したいと思う。

 コミットメントとは、約束、誓約、関わりにおける明確な立ち位置の表明、みたいな感じだろうか。

 この本は、色々な本の中で紹介されていて、「ああ、また紹介されている」というぐらいに、毎度毎度出てくるので、名著であるようだ。

 その中のひとつ、「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲・著)によれば、以下のようにある。

 社会の中で生きていくためには、約束を守ったり、言動に筋が通っているのはとても重要だ。会うたびにいうことがちがうようでは、誰も信用してくれない。「前の話とちがうじゃないですか」といわれると、ぼくたちはとても動揺する。一貫性がない→信用できない→社会的に価値がない、という無意識の連鎖がはたらくからだ。
 だからぼくたちは過去の判断をなかなか覆せないし、その判断と現状が矛盾することに耐えられない。要するに、失敗を認めることができない。

 ひとがいかに容易に一貫性の罠に陥るかは、オウム真理教の信者にその典型を見ることができる。周囲の反対を押し切り、すべてを捨てて宗教の世界に身を投じた以上、彼らは無意識のうちにその決定を正当化する強い圧力を受けている。
 (中略)

 マスメディアはこれを「オウムの洗脳」と報じたが、彼らは自分で自分を洗脳している。この状態が恐ろしいのは、けっして洗脳を解くことができないからだ。他人から注入された信念を否定することができるかもしれないが、自分で自分を否定するのは不可能だ。
 いったんコミットメントしてしまうと、ひとはそこから逃れられなくなる。これはカルト教団だけの話ではない。恋愛でも就職でもマイホームの購入でも、ぼくたちはきわめて簡単に自己洗脳状態に陥り、過去の選択を正当化してしまうのだ。

 自分自身が何らかの選択をして、その行動を続けてきたとして、もしある時、そのことが間違っていたということに気がつくのは、どれほどの苦しみだろうかと思うことがある。

 かくいう自分も、意地を張って損をしていることがわかっていながら、適当に自分をだます理由を紡ぎ出して自分自身を納得させることが多くあったような気がする。

 だけれども、仮に「それは正しいことじゃないから、あらためなきゃ」と思ったとしても、今までの選択が正しくなかったいうことを認めたくないし、もし認めたとすれば、じゃあ、それまでの自分の行動は何だったんだ!?ということになりかねない。
 しかし、自分の行動というやつは、割と他人にも影響を及ぼすことが多い。さらに、自分の間違った行動の結果、周りに迷惑をかけたり、損害を与えたりすることもあるし、挙げ句の果てに、間違った行動を他人が真似することもあったりする。

 そうであってもなお、自ら選んだ「間違った道」へのコミットメントからは、そう簡単には逃れられない。なぜならば、この状態は、そのコミットメントを否定することが、そのコミットメントに反する、つまり、缶の中に缶切りが入っているとか、金庫の中に、その金庫の鍵が入っているようなものだからだ。

そこで思い出すのは、別の缶切りを使うとか、スペアキーを使うという方法である。

心の世界の問題に詳しい仏典には、「鬼子母神」のエピソードがある。

鬼子母神は、自らの子供がいながら、他人の子供を食べてしまう鬼だった。それを見かねたお釈迦様は、この鬼子母神の子供を隠し、子供を奪われる苦しみを教えることによって、彼女は改心し、その後、子供を守る女神になったのだった。

 子供を食べる鬼を改心させ、逆に子供を守る神に変えてしまうお釈迦様というのは、やはりすごいなと思ったものだけれども、今、このコミットメントと一貫性の話を踏まえ、この話をもう一度考えてみると、(他者の子供を食べるというのは、「悪行」を示す、ひとつのメタファーであって、)鬼子母神自体に、他人の子供を食べ始める何かのきっかけというものがあって、このコミットメントと一貫性の罠に落ちている自覚が、多少なりともあったんじゃないかと思える。

 そこからの脱却、神になるきっかけというのは、実はお釈迦様でなくても、別のものでも良かったというか。
 だって、その後、神になったのだから、元々素質はあったんじゃないかと思うのだよね。



()内を追記しました。

2012年3月29日木曜日

合理的な豚さんたち

豚出沒注意
Via Flickr:豚出沒注意 by infilmity


 ゲーム理論の本を読むと、「合理的な豚」の話が出てくる。

「檻の中に大きな豚と小さな豚がいる。エサ箱は2頭のすぐ近くにあるが、蓋がしまっている。この蓋を開けるには、遠くにあるスイッチを押さなければならない・・・。大きい豚は、小さい豚に比べて食べるのも早く走るのも速い。」

結局のところ、力の強い大きな豚がエサのスイッチを押して、小さな豚がそのエサを食べる。

そして大きな豚が押しのけ、残りのエサを食べる、ということに、実際なるそうだ。

ここの事象だけ見ると、まるで小さい豚に操られているかのように、強い立場であるはずの大きい豚が檻の中で走り回る状況になる。

これは小さい豚がスイッチを押してエサを出して、大きな豚にエサを食べられて横取りされてもどうしようもないから、何もしないで大きな豚がスイッチを押してくれるのをエサが出るところで待っているのが、小さい豚にとっての「最適反応戦略」だから、に他ならない。

翻って、いろんな職場の話。組織を動かそうと思えば、すべての案件について皆が協力して仕事を進めていくのが良い、それは当たり前のことだけれども、実は仕事場の皆は「最小の苦労で最大の給与(等)をもらう」ということを狙っている。

ここで気がつくのは、職場のトップをはじめとする人たちと、単にサラリーマンをしてる社員が二種類いたとして、単純に個人の仕事における能力の差を単純に比較してみることの意味、そして、その動きの観察である。

実際に会社を経営している人間と、単にそこで雇われているサラリーマンとを比較してみれば、仕事に対する情熱、あるいは単純にその能力、等々を比較しても、おそらく会社を経営している側の人間の方が能力は高いだろうと思われる。

だからこそ、経営層として抜擢されるということもあるわけだが、この二種類の人間、つまり経営する人間と、命令を受けて経営される人間(集団)は、そのまま「合理的な豚」のような形の関係性にあると言えるのではないだろうか?と思える。

資金繰りに奔走するなどのツライ目に遭う会社の偉い人たちと、一方で言われたことを、なんとかこなすレベルで毎日を送る下っ端サラリーマン。偉い人の地位を占めるの人間は、時にパワハラまがいのことをやって、何とか日々の経営を維持している。

一方、雇われた側は、好きでもない仕事を権力的に押しつけられて毎日にうんざりさを感じながらも、自分で経営をする能力もなく、仕方なく組織の一員として日々の生活を維持する。

どちらも楽じゃない仕事はイヤだと思いつつも、この大小の豚が入った檻の中のフタとエサの関係性を巡って、似たようなパターンの動きを全力で行いながら、毎回、結果は似たようなパターンとなり、また次の日も似たようなパターンの日常が始まる。

大きな豚は、小さな豚のために懸命に走り回り、小さな豚は、自分の力のなさ故に横暴な大きな豚に(精神的にも)蹴散らされるという、その毎日をね。



※今日はなんかシニカルに、まとめてみました(´∀`)

2012年3月28日水曜日

牡丹に唐獅子 竹に虎

昔、Windowsのペイントブラシで描いて以来、なんとなく気に入っていたこの画像。
みんなから「猫?」と言われてきましたが・・。

虎ですよ!!両脇に竹が生えてるでしょ!

とらに、たけ。
なんか前に「吉」的な話を聞いていたのだよね。
で、調べたら・・。
 
牡丹に唐獅子 竹に虎 『南禅』平成11年1月号

が出てきた。
これによると、

あなたの依所(よりどころ)は、何んですか。 あなたが安心して身を寄せられる安住の地は、どこに在りますか。

とある。

アジア大陸の広域に生存する虎も、猛獣ですが、その数5千頭から7千頭と、将来絶滅が心配されています。虎は、象には勝てません。群をなした象には、歯が立ちません。そこで逃げこむ処が竹薮の中です。巨体は竹薮に入られず、また、竹薮に入ると、象牙にヒビが入ります。
その昔、杣人(そまびと)は、象牙のパイプを竹薮へは持って入らなかったということです。青竹に象牙は禁物です。従って、虎には竹薮が何よりの安全地帯であり、依所であります。

 これ、「牡丹に唐獅子」とセットの話だったのだね。
うーん、禅の世界、すてき。


おまけ:
ゴル休さん

2012年3月25日日曜日

Googleにdisられたら、どうしよう( ゚д゚ )

グーグルに差し止め仮処分 検索表示で中傷被害(日経)

大手検索サイト「グーグル」で自分の名前を入力すると、犯罪を連想させる単語が連動して自動表示されるとして、男性がプライバシー侵害などを理由に米グーグルに表示差し止めを求めた仮処分申請で、東京地裁(作田寛之裁判官)は25日までに、差し止めを命じる決定をした。グーグル側は差し止めに応じておらず、現在も表示される状態が続いている。

(中略)

男性は数年前から、突然会社を解雇されたり内定を取り消されたりし、その理由を調べる過程で中傷が広がっていることに気付いた。グーグル側 に表示停止を求めたが応じられなかったため、昨年10月に仮処分を申し立てた。東京地裁は今月19日付で男性側の主張を認める決定をした。


以前、グーグル八分という言葉があって、グーグルが気に入らないサイトを、自分の検索結果から除外するという話は聞いたことがあるのだけれど、 今回は、関連キーワードあたりが問題になってるらしい。

他にも、例えば政治家の名前を入れると、「売国」とか「在日」とかのキーワードが連動で出てくるようなのだけど、実際には、まったくそんなことに関係無かったりする場合もある。

おそらく基本的には、SEO対策というか、ネット上にそういう話がいっぱい転がっているとか、誰もがいっぱいそのキーワードを使って検索をかけた情報を統計的に解析して、「あなたの知りたいことは、こういうことじゃないですか?」 ということをはじき出す、というのが基本のシステムなんだろうけども。

今回のニュースを読むと、この仕組みを利用して、誰かを貶(おとし)めることが可能、かつ、その削除要求をしても応じないグーグル側の姿勢、というものがわかる。

自分の名前は割とユニークな方なのだけど、仮に同姓同名の人が社会的によくないことをした結果、その人のせいで就職とか、仕事に不利になってくるおそれがある、っていうのは、結構恐ろしいと思った。

何せ、グーグルの検索結果表示アルゴリズム(これは次々に変わるらしい)さえある程度わかれば、就活中の学生とかの妨害のみならず、採用する側の会社も、「ブラック」などの関連キーワードを付けられて、「この会社大丈夫かな」と検索している学生の心証の方をもコントロールできるわけなのだから。

そうでなくても、スマホ(アンドロイド)、Gmail、カレンダーなどで個人情報を集めまくっているから、後数年もすると、気に入らない人間を本当に抹殺できるぐらいのパワーを持ち得る存在になるかもしれないね。

今でも裁判所の言うことすら、そんなに簡単には聞かないグーグル様である。中国政府とはガチでぶつかっていたぐらいだから、日本政府ぐらいは別になんとも思っていないぐらいの勢いかもしれない。

もっとも、それはGoogleに限ったことではなくて、Appleだって、携帯キャリアだって、個人情報を抱える側面があったりする。何月何日誰に電話した、誰それにどういうメールをした、等々。これからお金の決済とかもスマホとかで頻繁に行われるようになるだろうから、考えてみれば、結構おそろしい。

ま、Don't be evil が、会社のスローガンだそうだから、グーグル様は、そんな悪いようにはしないよね?
きっと。


グーグルの理念

#ちょっと文のおかしいところ、直しました。

2012年3月24日土曜日

小説を読むのは何のため?

(昔、mixiに書いたもの、に追記しています。)

自分は小学生の頃からよく本屋に入り浸っていた。図書館でないところがミソ。中学生、高校生となり。趣味は何?と言われて「本屋で立ち読み」と答えるイケてない高校生だった。

しかし、小説というのはほとんど読まず、もっぱらノンフィクション系が好きだった。その当時は、「人が考えたウソ世界の話を苦労して読んで何が楽しいのか」と本気で考えていたからだ。本当にあった事件や、研究者が長年かけて研究した成果や、歴史上のことなどが書いてある本に比べて、小説やエッセイと いう奴は、やっぱりワンランク落ちるよなあと本気で思っていたのだ。ある作品に出会うまでは。

その名は銀河英雄伝説。これはハンパなくおもしろかった。ストーリーも壮大だったし、その作品世界と登場人物数、戦略や戦術という要素もありながら、特に小説の特徴的なおもしろさと言えば、登場人物同士の「掛け合い」にあるだろう。特にこの作品には外交の場面がよく出てくる。

で、外交における会話というのは、一種のチェスゲームのような物だ。言葉を吐いたら取り返しは付かない。限られた情報を相手に与え、相手の立場と考え方、お互いが自分の利得のために、相手にメリットを示して自分の意図を飲ませ合うという戦い。その名人戦の対局を眺めているようなそんな気分になる。

そんな交渉場面の解説や応用編なんかの紹介もある。銀河英雄伝説にこんな感じのものがある。ちょっとどこの場面が忘れた&ネタバレ禁止のため、ざっと思い出しながら+アレンジバージョンなのを勘弁して欲しい。

ある教師が生徒を成績をなじるのに、「君は本当に勉強をしているのかね」と尋ねる。もし生徒が「している」と答えれば「勉強していてこの結果なら、もう勉強する意味はないだろう。もう学校を辞めてしまえ」と言い、「していない」と言えば「どうして勉強しないんだ。やる気がないなら、もう学校を辞めてしまえ」と言う。
どっちにしても「学校を辞めろ」を言って、いじめることができるわけである。

このパターンは会社に通うサラリーマンなら、自分の思うような成績が上がらない上司が部下をなじるのと同じだと気づくだろう。

で、この作品では「やってはいましたが、努力が足りませんでした」と言えばいい、と教えてくれる。

そうすると、少なくとも辞めてしまえとは言われない。もっと頑張らなきゃダメだぞというところだ。それどころか、言外に指導力不足を指摘すること もできる。つまり、やらないといけないとは思っていたが、努力する気が(あなたのせいで)あんまり出ませんでした。という意味合いの。

まあ、ここまで追い詰められる前に成績を上げる必要はあるわけだけど、何かの拍子に他人からなじられそうになることはよくあることだ。そんな色んな状況に対して、小説における掛け合いというやつは、会話における戦略論に色々な示唆を与えてくれるものだ。

仕事もそうだし、会話においても一種の「見える化」が必要じゃないかと思う。よく「みんな自分勝手で欲張りばっかりだ」と鬱になる人は多いけれども、逆に考えれば、そもそも人間っていうのは、欲張りで自分勝手で自分のことしか考えないから、逆にその行動を読みやすいと考えた方が気が楽だ。

また人間というのは、どんな人でも、自分の発言が誰かに影響を与えるだろうという予想のもとに発言をするものだが、普通に誰かと仲良く暮らしているだけなら、言葉を発するということそれ自体は、共感の道具ということで済む。しかし、利害が絡む事象においては、交渉の道具に変質してしまうことだってある。

困るのは、こちらが共感の道具としてのつもりで、冗談や軽く発してしまった発言が、意外に相手の心情に届きすぎ、期せずして「交渉モード」に入ることがあること。

口は災いのもとだね。便利な道具は、便利な分だけ、取り扱い注意。


おまけ:

2012年3月21日水曜日

政治家のブログを読む。

たまに政治家のブログをチェックしてる。
なかなか本音らしきものが書いてあっておもしろいよ。

かつて「夫」とキーワードを入れると「死んでほしい」という検索サジェストをしていたGoogle様によれば、「渡辺喜美」と入れると、「売国」の検索サジェストが出てくる政治家、渡辺喜美先生のヨッシー日記を、今日はチェックしてみよう。

2012年2月29日のブログによると、

大阪W選の直前、橋下“スキャンダル”報道の先鞭をつけた新潮45が相変わらず、反橋下キャンペーンをやっている。佐伯啓思京大教授の「『橋下現象』のイヤな感じ」がその代表格。

 佐伯氏いわく。「橋下氏を変革の救世主としたい気持ちもわからないではない。しかし、それは一歩間違えば、・・・ハーメルンの笛吹き男に導かれて水中へ沈んでゆくネズミの群れになりかねません。」

 この類の感情的独裁者排除論が後を絶たない。しかし。佐伯氏自身がカール・シュミットの言葉を解説しているように、「危機の時代」には期限付きの「委任独裁」者が、敵と友を峻別し、重要事項を決断しなければならない。

確かにそうなんだけど、最近、僕は橋下さんの行動には、結構、疑問なのだよね。

(民主主義なんだから)「決めたことはやれよ」、と、要約すればその一言で強権をふるう橋下さん。確かにこの高い支持率っていうのは、根拠のないことばかりではない。だらけた公務員、社会のみんなが苦労しているのに、大して仕事していないのに高給を取っているのだという。(人によると思うけど。)

彼を、独裁者ヒトラーになぞらえるその理由のひとつには、悪者(ここではユダヤ人の代わりに地方公務員)に正々堂々と戦いを挑む、というやり方が、社会の人たちの共感を強く生むからだろうとおもう。

その共感のベースには、元々タレントだったこともあって、やはりテレビなどのマスコミが後押ししていることが大きい。いかにも自分のことしか考えていないような、特別にアタマの悪そうな公務員を連れてきて、橋下さんに対して自分勝手な論理を言わせてみせる。いかにもな悪役。みんなびっくり。役所ってこんなに腐っているのか。で、それに対して完全と立ち向かう橋下さんのヒーローっぽさがウケる。

しかし、この仕事してる感じはテレビで作られた虚像のような気がしてきた。彼が、社会のためにがんばっているのか、だんだんちょっと(?)な感じがしてきたから。

それは、例の国歌のくちパクチェック問題とか、あるいは公務員の政治活動や思想信条の調査問題みたいなもののため。このような、いくらなんでも日本人の民主主義の根幹にまで手を突っ込んでくるやり方は、ちょっと行き過ぎだと思うからだ。

政治家や行政が、心の問題にまで手を突っ込むのはまずいと思うよ。
人々が自由意志が持てない社会では、民主主義は維持できないと思うんだ。

彼への支持というのは、地方公務員への怒りとか、昨今の政治そのものへのおかしな部分に対する、一般社会の人たちの怒りが具現化したものであるから、それはまあ仕方のない部分もあるかと思うのだけど、この勢いで一般人に対して妙な法律とか作られたらたまらないからね。

追記:
わかりにくいみたいだから、追加しておくけど、要するに、「感情的独裁者排除論」とあるけれども、そもそも、彼への支持の多くが、メディアの作った実像のような一部の虚像に基づいた、「感情的独裁者待望論」によるものなのではないか?ということ。もちろん、理性に基づいて橋下さんを支持している人はいっぱいいるけれども、彼の行動と決定には、その理性に疑問符を持たせる行動が、最近、多くないか?ということです。
追記、ここまで。 


というわけで、理屈の方は共産党の先生にお任せしよう。

・・ヨッシー日記に戻る。

 野田氏の尊敬する政治家は、浅沼稲次郎、ジョン・F・ケネディ、大平正芳と非業の死をとげた人ばかり。「男子の本壊」風“滅びの美学”は、旧大蔵省のDNAだ。

これ、ホンネだよね。たぶん。こっちの方は、いったい何が言いたいのかな?

2012年3月19日月曜日

正しい行動について考える

社会における個人の自由というやつは、いつも議論になるところだ。

この問題を考えるときに、いつも思い出すのは、グレてしまった女子高生が、(援助交際をしても)「別に誰に迷惑をかけてるわけじゃないから、いいじゃん」と言い、大人は反論できずに黙ってしまうという、あの話だ。

他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい、というのは、一つの真理なんだろうと思うのだが、実は、もうひとつファクターがあるような気がするのである。

それは「判断能力」というやつである。

例えば、「精神を病んだ」ので殺人をしました、という場合は、無罪になることがある。
通常の判断能力を持っていなかったから、判断できなかった。ゴメンネ、というわけである。

ここでは、人間誰しも、「正常な判断能力をいつも維持できるわけではない」という前提があって、かつ、もし何らかの理由で判断能力の維持ができない場合、社会の他のメンバーに迷惑をかけることがあるという予想がある。
しかし、その維持できなかった理由というものが、社会的逸脱行為を行ったその人の責任ではない場合、それは、仕方ないから無罪にしてもいいんじゃない?という理屈に依っている。

よって、この「判断能力」云々の理屈を使うと、さきほどの援助交際をする女子高生を諭すこともできたりする。

「君はまだ未成年(子供)で、判断能力がないから、例えば、性病なんかをもらって一生を台無しにする可能性がある。だから、大人になるまでは(正しい判断能力を持つまでは)、そういうことをしちゃダメだよ。」という具合に。
すると、「ああ。あたしって判断能力がないから、大人の人の言うことを聞かなくちゃ」という結論になる。(かもしれない。)

さらに言えば、年齢を重ねればいいのかという事もある。身体に悪いと思っていても、いつまで経ってもタバコをやめないおじさんとか、食習慣の不具合を改善しなかったり、適度な運動をしないで生活習慣病になる人の多さ、などを考えると、正しい判断能力を身につけ、それを日々の習慣に反映させるのが、いかに難しいかがわかる。

大人の場合、それを正当化するため「堕落する自由だってある」って言い出すこともある。確かにそうだ。人に迷惑さえかけなければ良い。

でもそれ、援助交際する女子高生の理屈と変わらないのではないだろうか・・・?

なので、真に幸福追求を考えたとき、実は本当に必要になるのは、人生における「判断能力を磨く」ことに他ならないのではないだろうか、というところにまでは行き着く。のだけど、では、どうやったら「正しい判断」なるものを続けていけるのか、あるいは、そもそも正しいことってなんだろう?ということが、ずっと考えていると、はっきり言って、本当のところ、何が「正しいこと」なのか、わからなくなることもある。

何故なら、人間、どんなに品行方正に生きても、いつかは老いて死ぬ運命だし、社会で正しいとされていること自体が実は正しくなかったり、正しいはずの行動が矛盾に遭遇したりすることも、しょっちゅうであったりする。

どんなに正しくあろうと考えても、「判断能力」が及ばない部分だってある。
そうすると、フラストレーションが溜まっていく。その社会一般というやつが提供する「正しさ」というやつが、実は本当に正しいのかどうかは証明しようがないし、実際、かなり怪しいことだってある。実際、数学、物理などの話に関しては、正しいことのことが多いのだろうけれども、ちょっとでも人間同士の利害が絡む部分については、「それはおかしいだろう」と思わずツッコミたくなるぐらい、おかしなことも多かったりする。

時には、いっそ正しくないとされる行動を選択し、正面突破を図りたくなることだってある。つまり、社会にとっては「正しくない」とされることでも、 本当に自分にとって「正しい」ことだと思えば、敢えて社会性を無視して突き進む方がいいときだってあるはずだ。

なぜなら、そのまま、ただ、惰性に流れる人生を送っていても「じり貧」に陥るだけだからだ。


・・・と、書いたのだけど、この「じり貧」論。

ABCD包囲網で経済封鎖された、当時の大日本帝国が開戦を決めたときの論法なんだよね。

うーん、もう少し考えてみよう。


「死んで応援」って書いてあった。不覚にも笑ってしまった。

2012年3月18日日曜日

本に書いてあることを、ネットで掘ってみよう

苫米地英人の著作を読んでみた。この著者に対する批判は結構あるが、その分、なんか真相っぽいことを書いてあるかのようなこともあり、結構、読み物としてはおもしろかったりする。つまり、ある程度、本当のことを書くから、批判もされるんじゃないか、というやつ。

彼は脳機能学者ということで、オウム事件に関わる脱洗脳の話とかで有名である。

私事になるが、自分がかつて、コンピュータ会社で働いていたときに、ある事件に遭遇したこともあって、一歩間違えば死んでいたかも!という恐怖を味わったことがある。
それでオウム関係の本、ならびに、その事件を書く人たちに興味を持った。その中の一人である。

で、今回は、「現代版・魔女の鉄槌」を読んだ。陰謀論めいた話もあり、まゆつばな部分もあるけれど、結構おもしろい。誤字が多いのはご愛敬。

この中にこういう記述がある。(p.136)

  東京電力は、不動産や有価証券など驚くほど豊かな資産を保有しています。役員や社員の給料も高いし、企業年金も非常に手厚いわけです。
  当然、保有資産をすべて売却し、それを賠償に当てる(原文ママ)のだろうと思っていると、驚いたことに、彼らの頭にそういう考えはほとんどありません。
  国会の予算委員会では、「企業年金基金の取り崩しをするつもりはあるか」と尋ねられた東電社長が、「OBや社員には老後の生活設計があるので、年金基金の取り崩しは検討していない」と答えました。原発30キロ圏から非難(原文ママ)した人々の生活設計よりも自分たちの老後の方が重要というのですから、たまげた答えです。 

 上記の話を、ネットでざっと探すと、出てくるのは、これである。


 Googleなどの検索エンジンは、意外(?)に2chのまとめサイトとかが好きで、リンクの上位に上げてくるのが、おもしろい。

 ここを、検索を進めるためのキーワードを拾う場として使う。苫米地氏の本には書いていないが、質問者は「中西賢治」という議員らしいことがわかる。みんなの党の1年生議員のようだ。

で、色々やって見つけたのは、下記の動画。

問題の質問は、14:00あたりから始まります。(このあたりから見ると、おもしろい) 


昨年の5月13日の委員会。
この問題がどうなったのか、ちょっと興味のあるところだね。



2012年3月12日月曜日

天才とは

「昔、トーマス・アルバ・エジソンという男がいて……」
と、クルガンは知人に語ったことがある。
「刑務所に電気椅子をセールスしてまわった男だが、そいつが言った。天才とは九九パーセントの汗と一パーセントの霊感だ、と。低脳の教育者どもは、だから人間は努力しなくてはならない、と生徒にお説教するが、低脳でなければできない誤解だ。エジソンの真意はこうだ――いくら努力したって霊感のない奴はだめだ、と」

七都市物語 田中芳樹

2012年3月11日日曜日

3.11の記憶と、この一年で変わったこと

20120311_175725
2012年の3.11の今日。夕方の東京は、どんより。
  あの日、地震が起きて、皆の仕事が止まり(というか、携帯のみならず、固定電話すら止まった)、テレビが、淡々と、刻々と大きくなる被害を伝えた。そして、電車が止まり、人々は、不安を抱えながら、長い道のりを、徒歩で、深夜におよび家まで歩くという、小学校の頃にやった集団下校の超巨大版に参加することになった。

幸い、一部に火事があっただけで、首都圏の物理的な被害は、もちろん東北の被災地に比べれば、軽かったけれども(しかし臨海部では石油関連施設が爆発して、その後に、有毒物質が降ってくるというデマが流れた。)、テレビでは、今まで見たことの無いような、文字通り、未曾有の災害というものが起こっていることを報じていた。

まるで巨大な悪魔の手がすべてを削っていくかのように浸食していった、あの光景。
その後も、 刻々と津波の被害が、報告されるにつれ、ただ呆然とするしかなかった。

その後、おそらく日本国民すべての人が、冷や汗をかいたのは、原発事故だったろう。
何せ、原発で建屋が次々に爆発、メルトダウンまでした。これ以上の驚きはあるだろうか。

さらに、この首都圏全体、自分だけではなく、家族も、友達も、職場の皆も、この放射能にやられてしまうのか!?という思い。飲み水からも、何ベクレル、みたいな話が出て、そして消えた。

その後、 一進一退を続けながら、なかなか収束しない原発問題、人々の間に広がるフラストレーション、そんなものが肌で感じられるような、そんな一年だった。

その中でもショックだったのは、自分は日本国っていうのは、もっと国民を大事にする国だと思っていたのが、それが割とそうでもないのかなー、という思いを持ったこと。

偉い人は結局責任を取らないし、国有化も、発送電分離も結局行われず、収束もしていないのに原発の再稼働が必要だと主張し、反対するやつは(理系の)知識のないバカが言うことだ、みたいなことを言う人たち。

よくわからない理由で総理大臣も辞任してしまい、この国の舵取りに携わる面子も色々と変わってきた。
自分が最も驚いたのは、夏頃、被災地の小学生たちの夏休みの宿題に、身体の変調がどうなったかの日記を付けさせる、というニュースがあったこと。で、「未来の科学に貢献しよう!」という話をしていたという。

これって実験動物化だよね。

戦前、子供を疎開させてた時代の方が、よっぽど子供を大事にしてたんじゃないかと思った。
別に正義を振りかざして、それが悪い!って言ってるんじゃないよ。

純粋にこの国が、ちょっと怖くなってきた、っていう感じはする。すごい残念な感じ。

おまけ:

2012年3月10日土曜日

王への道

あるブログを読んでいたら、あるアニメのことが書いてあって、「王は、どうあるべきか」という論争が、その話中であったのだという。

「王は民のためにある」という一方に対して、「王は、羨望を受ける立場にならなければいけない」という反論があって、その理由は、要は「王は、民のロールモデルにならないといけないから」というものである。

社会のレベルが低い間は、暗愚の王は民から搾取し、民のために働く王が尊いとされていたが、実は、それだけでは足らないのであって、民はその王の庇護の中で安住してしまう。

従って、王というのは「オレもああいう王になりたい」と、民に刺激を与える存在でなければならない、そうすることで人々の間に目標が生まれ、結果としてその国は富むと言うことになる。そのためには、時にある程度の贅沢も必要となる。

但し、それは「浪費」ではなく、人々の憧れになるようなものでなければならない。

国力とは、民の力を結集した場合、どれぐらいの力を持つかということだから、人を感化する能力というやつが、実は、王に最も必要とされる能力なのかもしれない。

2012年3月8日木曜日

テスト投稿

これは、テストです。
さる
とらのかくれが、の、つもり…が、さるのおふろば、になったテスト。