2012年3月19日月曜日

正しい行動について考える

社会における個人の自由というやつは、いつも議論になるところだ。

この問題を考えるときに、いつも思い出すのは、グレてしまった女子高生が、(援助交際をしても)「別に誰に迷惑をかけてるわけじゃないから、いいじゃん」と言い、大人は反論できずに黙ってしまうという、あの話だ。

他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい、というのは、一つの真理なんだろうと思うのだが、実は、もうひとつファクターがあるような気がするのである。

それは「判断能力」というやつである。

例えば、「精神を病んだ」ので殺人をしました、という場合は、無罪になることがある。
通常の判断能力を持っていなかったから、判断できなかった。ゴメンネ、というわけである。

ここでは、人間誰しも、「正常な判断能力をいつも維持できるわけではない」という前提があって、かつ、もし何らかの理由で判断能力の維持ができない場合、社会の他のメンバーに迷惑をかけることがあるという予想がある。
しかし、その維持できなかった理由というものが、社会的逸脱行為を行ったその人の責任ではない場合、それは、仕方ないから無罪にしてもいいんじゃない?という理屈に依っている。

よって、この「判断能力」云々の理屈を使うと、さきほどの援助交際をする女子高生を諭すこともできたりする。

「君はまだ未成年(子供)で、判断能力がないから、例えば、性病なんかをもらって一生を台無しにする可能性がある。だから、大人になるまでは(正しい判断能力を持つまでは)、そういうことをしちゃダメだよ。」という具合に。
すると、「ああ。あたしって判断能力がないから、大人の人の言うことを聞かなくちゃ」という結論になる。(かもしれない。)

さらに言えば、年齢を重ねればいいのかという事もある。身体に悪いと思っていても、いつまで経ってもタバコをやめないおじさんとか、食習慣の不具合を改善しなかったり、適度な運動をしないで生活習慣病になる人の多さ、などを考えると、正しい判断能力を身につけ、それを日々の習慣に反映させるのが、いかに難しいかがわかる。

大人の場合、それを正当化するため「堕落する自由だってある」って言い出すこともある。確かにそうだ。人に迷惑さえかけなければ良い。

でもそれ、援助交際する女子高生の理屈と変わらないのではないだろうか・・・?

なので、真に幸福追求を考えたとき、実は本当に必要になるのは、人生における「判断能力を磨く」ことに他ならないのではないだろうか、というところにまでは行き着く。のだけど、では、どうやったら「正しい判断」なるものを続けていけるのか、あるいは、そもそも正しいことってなんだろう?ということが、ずっと考えていると、はっきり言って、本当のところ、何が「正しいこと」なのか、わからなくなることもある。

何故なら、人間、どんなに品行方正に生きても、いつかは老いて死ぬ運命だし、社会で正しいとされていること自体が実は正しくなかったり、正しいはずの行動が矛盾に遭遇したりすることも、しょっちゅうであったりする。

どんなに正しくあろうと考えても、「判断能力」が及ばない部分だってある。
そうすると、フラストレーションが溜まっていく。その社会一般というやつが提供する「正しさ」というやつが、実は本当に正しいのかどうかは証明しようがないし、実際、かなり怪しいことだってある。実際、数学、物理などの話に関しては、正しいことのことが多いのだろうけれども、ちょっとでも人間同士の利害が絡む部分については、「それはおかしいだろう」と思わずツッコミたくなるぐらい、おかしなことも多かったりする。

時には、いっそ正しくないとされる行動を選択し、正面突破を図りたくなることだってある。つまり、社会にとっては「正しくない」とされることでも、 本当に自分にとって「正しい」ことだと思えば、敢えて社会性を無視して突き進む方がいいときだってあるはずだ。

なぜなら、そのまま、ただ、惰性に流れる人生を送っていても「じり貧」に陥るだけだからだ。


・・・と、書いたのだけど、この「じり貧」論。

ABCD包囲網で経済封鎖された、当時の大日本帝国が開戦を決めたときの論法なんだよね。

うーん、もう少し考えてみよう。


「死んで応援」って書いてあった。不覚にも笑ってしまった。