自分の大好きな本のひとつに、ロバート・チャルディーニという人が書いた「影響力の武器」というものがある。
この本を著すにいたっては、著者自身がいつもカモにされていたことがきっかけであったようだ。この本の中では、社会に色々とはびこる心理的なプレッシャーには、どういったものがあるのかというものが、カテゴリ分けされ、分析されている。
さて、そのカテゴリ分けの中には「返報性」とか、「社会的証明」とかがあるのだけれど、ここでは「コミットメントと一貫性」を紹介したいと思う。
コミットメントとは、約束、誓約、関わりにおける明確な立ち位置の表明、みたいな感じだろうか。
この本は、色々な本の中で紹介されていて、「ああ、また紹介されている」というぐらいに、毎度毎度出てくるので、名著であるようだ。
その中のひとつ、「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」(橘玲・著)によれば、以下のようにある。
社会の中で生きていくためには、約束を守ったり、言動に筋が通っているのはとても重要だ。会うたびにいうことがちがうようでは、誰も信用してくれない。「前の話とちがうじゃないですか」といわれると、ぼくたちはとても動揺する。一貫性がない→信用できない→社会的に価値がない、という無意識の連鎖がはたらくからだ。
だからぼくたちは過去の判断をなかなか覆せないし、その判断と現状が矛盾することに耐えられない。要するに、失敗を認めることができない。
ひとがいかに容易に一貫性の罠に陥るかは、オウム真理教の信者にその典型を見ることができる。周囲の反対を押し切り、すべてを捨てて宗教の世界に身を投じた以上、彼らは無意識のうちにその決定を正当化する強い圧力を受けている。
(中略)
マスメディアはこれを「オウムの洗脳」と報じたが、彼らは自分で自分を洗脳している。この状態が恐ろしいのは、けっして洗脳を解くことができないからだ。他人から注入された信念を否定することができるかもしれないが、自分で自分を否定するのは不可能だ。
いったんコミットメントしてしまうと、ひとはそこから逃れられなくなる。これはカルト教団だけの話ではない。恋愛でも就職でもマイホームの購入でも、ぼくたちはきわめて簡単に自己洗脳状態に陥り、過去の選択を正当化してしまうのだ。
自分自身が何らかの選択をして、その行動を続けてきたとして、もしある時、そのことが間違っていたということに気がつくのは、どれほどの苦しみだろうかと思うことがある。
かくいう自分も、意地を張って損をしていることがわかっていながら、適当に自分をだます理由を紡ぎ出して自分自身を納得させることが多くあったような気がする。
だけれども、仮に「それは正しいことじゃないから、あらためなきゃ」と思ったとしても、今までの選択が正しくなかったいうことを認めたくないし、もし認めたとすれば、じゃあ、それまでの自分の行動は何だったんだ!?ということになりかねない。
しかし、自分の行動というやつは、割と他人にも影響を及ぼすことが多い。さらに、自分の間違った行動の結果、周りに迷惑をかけたり、損害を与えたりすることもあるし、挙げ句の果てに、間違った行動を他人が真似することもあったりする。
そうであってもなお、自ら選んだ「間違った道」へのコミットメントからは、そう簡単には逃れられない。なぜならば、この状態は、そのコミットメントを否定することが、そのコミットメントに反する、つまり、缶の中に缶切りが入っているとか、金庫の中に、その金庫の鍵が入っているようなものだからだ。
そこで思い出すのは、別の缶切りを使うとか、スペアキーを使うという方法である。
心の世界の問題に詳しい仏典には、「鬼子母神」のエピソードがある。
鬼子母神は、自らの子供がいながら、他人の子供を食べてしまう鬼だった。それを見かねたお釈迦様は、この鬼子母神の子供を隠し、子供を奪われる苦しみを教えることによって、彼女は改心し、その後、子供を守る女神になったのだった。
子供を食べる鬼を改心させ、逆に子供を守る神に変えてしまうお釈迦様というのは、やはりすごいなと思ったものだけれども、今、このコミットメントと一貫性の話を踏まえ、この話をもう一度考えてみると、(他者の子供を食べるというのは、「悪行」を示す、ひとつのメタファーであって、)鬼子母神自体に、他人の子供を食べ始める何かのきっかけというものがあって、このコミットメントと一貫性の罠に落ちている自覚が、多少なりともあったんじゃないかと思える。
そこからの脱却、神になるきっかけというのは、実はお釈迦様でなくても、別のものでも良かったというか。
だって、その後、神になったのだから、元々素質はあったんじゃないかと思うのだよね。
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