2012年4月21日土曜日

東京について考える

東京タワー

自分は東京が好きだ。私事になるけれども、自分は中学生の頃に3年間ほど九州の田舎に住むことになり、しばらくして「ああ。ここには住みたくない。東京に帰りたいなあ」と思っていたものだ。

もちろん、田舎にはいいところもたくさんあったのだけど、何というか、「ピアープレッシャー(同調圧力)」が強すぎたので、住みづらかったのだよね。「みんな、これをやってる。だからお前もするよな?」みたいな。

あるいは、いいやつと友達になり、人間関係が密になるのは良いのだけれど、その人間関係を維持するために、田舎では人々の間には異常なほどに上下関係にこだわるところがある。人よりも上に立てば、その地位を維持するために人を押さえつける必要があるし、人よりも下に立てば、その地位を維持するために人から押さえつけられてしまう。
他人を支配するのも支配されるのも、あんまり好きじゃない自分にとっては住み心地が良くなかった。周りがそうだからしょうがないのだけど、ちょっとヒキコモリがちになりたくなる。

で、高校生になって東京に戻ったとき、まずテレビで天気予報をやっていたのだけど、その時に関東地方に晴れとか雲のマークがついていて「ああ、帰ってきたんだなあ」というほっとした気分になったことを憶えている。

東京では、住んでいる人たちの文化度が、(その九州の田舎に比べれば)圧倒的に高いことや、同級生の女の子たちのファッションが洗練されていて、とても美しく感じたのを憶えている。(だいたい、田舎の最もかわいい子が、東京の中間レベル、という感じ。)

ゲームセンターにいけば、田舎の中学生が「ゼビウスでオレはエリア○○まで行った」と自慢するレベルであったのに、東京ではゲーマーによる「ジェミニ誘導で誘導弾を3つ回す技を見せた後、カンストする」というものを見られるぐらいに文化レベルが違うのである(・・ってわからないか(´∀`))

特徴的な違いは、なんといっても他人からどれだけかまってもらえるかが全然違う、ということだろうと思う。田舎では、少ない人口の中で、人間集団を作り、その中で最も偉くなるという(地位を維持する)人生ゲームであるのに対し、東京だと多くの人口や、そこで発信される才能が既にあふれているので、その中で、いかに自分の好きな人にかまってもらうか(仲間になってもらうか)のゲームとなっていて、なんだか人々の行動基準の発想が逆転しているような感じを受けた。

その才能(あるいは文化と呼ぶべき?)を発揮する人たちが、色々と競争をするものだから、東京という都市がそれを糧に、ますます発展していき、地方にいる若い人たちを、ますます呼び寄せるという仕組みフィードバック現象もあるんじゃないかと思う。(地方では、なかなかその才能を発揮させるところは少ないからね。)

かつて、エリック・レイモンドという人が「伽藍とバザール」という文書をネットで発表して話題になったけれども、その相似形が「田舎と都市」の差となって、特徴的に現れているようにも思えるんだよね。

だけど、自分をそれなりにプロデュースすることを考えないと、逆に東京での生活は、かなりさびしいものになってしまうだろう。
なので、ここで東京での生活に失敗し、田舎に戻る、という人生ルートも考えられるんだけどね。

あちこち日本を旅してみると、日本の地方は、大企業が設備、インフラ、文化を一体的にパッケージ化したものを、コピーして貼り付けした、どこに行っても代わり映えのしない、あるいは独自文化の育ちにくい感じになっている印象を受ける。

クルマ、国道、パチンコ屋、工場、大型ショッピングセンター、ファミレス・・などなど。
そこそこ文化的に暮らせるけれど、独自文化は消えつつある。その地方の独自文化を担う人材を、東京が吸収してしまっているせいかもしれないね。

参考に:

銃・病原菌・鉄
「なぜヨーロッパ人がニューギニア人を征服し、ニューギニア人がヨーロッパ人を征服することにならなかったのか?」という疑問から始まった、人口の稠密化についての考察がある。ピューリッツァー賞受賞。

参考ブログ記事:
池田信夫氏ブログ(西洋と中国の「大分岐」
Wired.jp (日本のゲームセンターを描くドキュメンタリー『100円』)