過去のブログと連結してデータを移動させましたので、そちらをご覧ください。
http://toranokakurega.blogspot.jp/
2016年12月3日土曜日
2015年11月29日日曜日
音、聞こえる?

職場近くに新しいビルがあって、そのビルの入り口周辺では鳥か、あるいは若者を追い払うためか高音が鳴っている。 (チチチチチチチチ・・みたいな音)
この音は若者にはうるさいぐらい聞こえるそうだが、老人はまったく聞こえないという。
おそらく若者(子供)がたむろってくるのを避けるためにやっているのだと思うのだけれども、最近なんか急にその音を感じる力が弱くなったような気がする。
よくmp3は人が聞こえない高音域をカットし、データを圧縮することでファイル容量を小さくしているというのだけど、若者ははっきりと可聴域が広いからその劣化がわかるんじゃないかな?とか思った。
で、今はやりのハイレゾオーディオって実際、若者でないと本当の意味では楽しめないんじゃないかな、とか思った。
2015年10月8日木曜日
私家版・夢十夜2 猫の皮を被ったなにか

先日、かねてより再び訪れたいと思っていた、埼玉の奥秩父にある、三峯神社に行ってきた。
その場所に行ったのは3回目。本当に山の中で、風が涼しく訪れた当日は天気も良かった。
霊験あらたかな場所です。
その場所に行ったのは3回目。本当に山の中で、風が涼しく訪れた当日は天気も良かった。
霊験あらたかな場所です。
道路はわりと空いていたというのに、クルマで片道約3時間ちょっとかかる、ちょっとスピリチャルな場所。
そこから帰って、その夜に見た夢。
今回の舞台は古い秩父のような昭和の雰囲気が残る街の、古い木造アパート。2階に上るには老朽化した鉄骨階段を使わないといけないような場所。
そこを誰かと(自分の他二人ぐらい?)歩いていて、自分がその階段をのぼりおりしてると、数匹の猫が自分の周りに寄ってくる。
その中に一匹だけ、白い、血だらけのチンチラのような猫がいて、さらに自分に寄ってきて、付きまとうので軽く抱いてみると、すごく深手を負っていて、傷だらけの白い身体に赤い血がたくさん付いていた。
かわいそうに、と撫でていると、何故か「ああもう死んじゃうんだな」と思って、急に悲しくなって涙が出てきたのだけど、撫でているうちに満足そうな表情になってきたので、泣きながら「こんなものでいいのかい?」とか猫に話しかけていて、そのうちその姿はなくなってしまったような…(この辺の記憶がいまいちない)…感じだったのだけど、あとで「あっ!」って思って、ああ、この猫、猫の姿してるけど、本当は猫じゃなくて、この世にさまよってた魂だったんだなぁ、誰かに看取って欲しかったのか、と気がついて目が覚めたのでした。
結構泣いてた(笑)
どうもスピリチャルって人をだますところばかりクローズアップされがちだけど、これ感情の問題なんだなって思った。もっとも、感情に流されてだまされることが多いんだよね。世の中。
2015年9月15日火曜日
秋…
今年も早いもので、もう下半期がスタートしてしまった。
今年はおかげさまで割と平穏な年であって、大きなトラブルもなく推移している。
家族もそれほど大きな病気とかそういったものもなく推移してる。
ここのところ、Twitterを眺めることが多くて、知り合いたちと@メンションを飛ばしながら毎日を何となく過ごしているのだけど、一方でブログみたいなものも書かなくなってしまって、立ち止まって考えをまとめるっていうことをしなくなっちゃったような気がする、ので、ちょっと投稿。
運動は習慣化できたので、次は少し勉強する習慣付けたいなーなんて。
今年は良い年。秋風が気持ちよい。
2015年5月16日土曜日
健康作りはPCの環境設定のように…
同じスペックのパソコンを買っても、快適な環境を構築している人と、なんだか重たい環境でマウスやキーボードに当たり散らす人がいるのだけど、同じハードウェアを使っているはずなのに、どうしてこういう違いが出るのだろう?
その理由は、簡単に言うと、重たい、あるいは使いにくいは余計なプログラムやデータをインストールし過ぎているからなのである。その本来なら不必要であっても、なんかそのプログラムやデータを入れることでさらにシステムが強化されるような錯覚に陥っているからだ。つまり、ユーザーの意識(こうしようという気持ち)がシステムに反映している。
大事なことは、リソース、つまりCPUやメモリなどなどは有限だ、ということに気がつくことじゃないだろうか。すると、取捨選択をして、不必要なものについては捨てる、というプロセスが重要になる。
プロセッサーの能力を超えた課題を与え続けると、システムは破綻する。
同じように身体についても同じことが言える。人間の身体も単純に言って、処理能力には自ずから限界がある。だから、食べ過ぎ、やり過ぎには限界があって、それを超えるとシステムが破綻してしまう。病気になる。栄養分の取り過ぎによる生活習慣病や、情報の取り過ぎによる精神疾患は、まずはそこが原因である。
よって、その「取り過ぎ」をどうやって避けるかが、実は重要な課題である。
PC設定や健康や精神だけではない。家の中に使いもしない不要なものを溜め込んだりするのも良くない。モノがあふれて身動きが取れなくなることもある。
これらモノや情報をたくさん持っていれば豊かになるという発想は、これまで人類が何万年もモノ不足の中で生きてきた遺産であって、それを所有するより得ること自体が大変で、一方、所有コストに関してあまり考えなくても良いという長い長い時代の歴史の名残である。しかし、この爆発的に進む世の中にあっては、自分にとって必要か不必要かもわからないようなモノや情報があふれ始めている。それを処理するためのコストが、無視できないところか破綻の原因になるところまで来た時代にさしかかってきてはいないだろうか。
特に情報と食べ物(カロリー)に関しては、この処理コストは考えてみれば馬鹿にならないスピードで増えていて、一方でそれを維持、管理、あるいは処理するプロセッサーとしての人間の身体というのは昔の処理能力のままなのだから、廃棄することを意図的に考えていかないと、色々な部分で破綻の原因にすらなり得る。
ちょうど、太りすぎて糖尿病になって身体の一部が腐ってきたりするような…、とにかく入ってくるモノを処理する能力を上げるか、入ってくるモノを制限するか、入ってきたものを取捨選択して捨てていくか、いずれかの選択を要求されるだろう。
ならば、取捨選択能力を鍛えて、自らの処理能力内で必要かつ最も価値の高く日々の過ごし方って何だろうか?と自らに問うのは悪くない習慣じゃないだろうか。
…それでもなお、ご飯を食べずに廃棄するって抵抗あるけどね。
2015年1月18日日曜日
引っ越しして、土地について考えてみた
去る11月、10年以上住んでいた部屋を引き払って引越をした。と言っても別に感傷的にはならなかった。何故ならばフロアを移動しただけで同じ建物内で移動したからだ。
だから部屋の広さは前と変わらないし、窓から見る景色もあまり変わらないし、出勤して乗ってるエレベータも同じだし、定期もそのままだし、買い物に行くスーパーもそのままだ。つまり生活感は変わらない。家に帰るときにエレベータで押すボタンが違うだけだ。
それでも、引越はとても気分転換になるものであって、それまで何気なく気になっていた経年劣化による配管の劣化による水漏れとか、あちこちの汚れは一掃されたし、一回丸ごと引っ越しすることによって、かなり不要なものをたくさん捨てることができて、身軽になれた。敷金もそれほど目減りせず、リフォームするよりお金もかからなかったのだから、良い結果だったと思う。
もう自分は年齢をかなり重ねてしまっているのだけれど、家を買うということについては、どうも消極的なことしか考えられなかった。
本来なら家庭を築いて家を買い、子供を育てながら住宅ローンを払うのが、日本の男として生まれた人生の本来のコースなのであろうけれども、ちょうど20年前の阪神大震災の、あの高速道路が倒れた写真を見て、それから睡眠が浅いせいかどうなのかはわからないのだけど、巨大な建物が壊れて崩れた夢を見ちゃったりなんかして、深層意識的にどうも巨大災害が気になっている自分がいる。
不動産を持つっていうことに関して本来的に臆病なのかもしれない。
実は僕の父親は、僕が中学生のときに家を買ったことがある。それは地方の一戸建てで、広くて快適だったけど、結局そこも3年間しか住まなかった。地方に家を買った理由は、母の父、つまり母方の祖父が寝たきりになって介護が必要になったためで、父は一種のプレゼントだと言っていた。父自身は東京に留まったまま、その家にはたまにしか帰らず、やがてその母方の祖父も亡くなり、結局一家で東京に戻って賃貸住まいに戻ることになった。
一方で、よその家庭を眺めていると、バブル前からバブル期、そしてバブル崩壊に至る時期、その地域に彼らの親が一戸建てを建てて暮らしていた人たちは、割と高度成長期の地価高騰によってキャピタルゲイン(資産の値上がり益)による利益を得ていたようだった。
もしも日本の国がずっと成長していれば、そういった日本の成長に合わせて資産価値が上がることによって、家を借金で買って、日本の国が成長することによって土地の価値が増し、その家を売却することによって資産運用に、最後おつりが出て完了するという、とても美味しい運用ができた。実際にその成功体験の記憶がまだ結構、世の中に残っていたりする。
ところが90年代のバブル崩壊以降、この流れは完全にとまってしまった。土地の価値が上がらなくなってしまったのだ。よって、ここで土地によるキャピタルゲイン狙いはできなくなってしまったのだった。
ここで僕が家を買いたくない理由を並べると:
1.大地震のリスク(阪神淡路、東日本大震災を考えると、だいたいこの国では20~30年に一回、どこかに大災害が来るようなリスクがあるような感じ。戦争などもこの範疇に入るのかもしれない。)
2.父が地方に家を買って住んでみた印象から、ある土地の人間関係に縛られると、とても暮らしづらいという印象があること。都内だったら移動して人間関係のリセットが簡単、というか、そもそも自分で人間関係を構築していかないとかなりさびしくなるのが東京という場所柄。それに慣れちゃっている。
3.これからの人口減少による不動産価値が下落するだろうという自分なりの予想があること。但し、中国人などの外国人が資産運用目的で、土地を買いあさってくるかもしれないので、こと高級物件に関しては、ちょっと意味合いが違ってきてくるのかもしれない。
4.ただもう日本は、本来的にもうすでに住宅建築を必要としていない。それは今の空き家問題として顕在化してきているから、早晩、特に日本の中古住宅市場は崩壊するだろうと思っている。そしたら、割安になった物件を買ってもいいかなとも思っている。
5.技術の進歩による建築技術の発展。これによって容積率が大きく内装も近代化した物件が今後たくさん登場することが見込めるため、古くてアスベストまみれの建物の価値は競争に負けて、今後も価値がすごく下がっていくと思われること。
後は、買いたくない理由とは別に、将来はすでに既定路線になっている部分もあるので、それを、今の時点でまとめてみると:
1.今後、民法の大改正が待っているらしい。
2.外国人(特に中国人)が日本の不動産を買おうとしてる。
3.日本の高齢化がますます進み、高齢者が持っている物件が塩漬けになっている。
安倍政権になる前から民法の大改正があるという話はちらほらあって、おそらく憲法改正とかと同じ流れで考えているのだろうけど、日本の社会の形を大きく戦後体制から変えていこうという発想の下に動いている一環なのだろうと思う。で、結局、おそらくその方向軸は、私権の制限だろうと思うのね。
日本の土地法制は、戦後、圧倒的に弱者だった借り主を保護するためという事情があったこともあって、とても土地建物(特に建物)の借り主に有利にできている。しかし、そのせいで特にバブル期には土地への居座りとかが結構起こっていた。これはかなり土地の効率的な開発を滞らせる原因になるから、何かしら国家権力や行政の力が行使しやすい方向になっていくような、そんな感じがする。
その後、バブル期には、その情勢もあって大きな不動産物件をたくさん作ろうとした。しかし、それには広く、土地の形も整理され、そして権利的に整理された更地が必要になり、そこにお金が集まったことで「地上げ屋」がたくさん生まれた。当時のマスコミは、その地上げ屋のバックにいたのが暴力団だったりしたことが多かったこともあって、徹底的にそれを叩いていた。
そうしたことで、うまく土地の形を整理するという職業の人は、世間的には悪いやつとして扱われることになった。地上げ屋のターゲットになった方も、もうちょっと居座れば、自分の土地が高く売れるだろうという目論見もあって、結局、双方がこのチキンレースに勝つことができず、結局、バブル崩壊という喜劇によって、結果、ヘンテコリンな地形、土地利用の建物ばかりが東京にあふれることになってしまった。
そうしたことで、うまく土地の形を整理するという職業の人は、世間的には悪いやつとして扱われることになった。地上げ屋のターゲットになった方も、もうちょっと居座れば、自分の土地が高く売れるだろうという目論見もあって、結局、双方がこのチキンレースに勝つことができず、結局、バブル崩壊という喜劇によって、結果、ヘンテコリンな地形、土地利用の建物ばかりが東京にあふれることになってしまった。
しかしあれから幾年月。そこに住んでいた人たちも歳を取って亡くなり、日本の都市部の土地には、権利的にかなり断片化されたままになって、誰が持ち主なのかすらもわからないという状況になっている。おそらくこのままだと、さらに少子高齢化の影響もあって地権者が誰かもわからず、細切れの権利関係が複雑になっていって土地が死蔵されるのを、強い政治力を持ってる金持ちたちがぼんやり指をくわえて見ているとは思えない。
さらに景気対策として、資産家や外国人が資産として売買できるような物件を日本の中で揃えていくには、今ある、この細切れの土地の権利関係をすっきりさせ、都市計画を仕切り直して、使いやすくて資産価値のある場所にしていく必要から、法改正の話が出てくるはずだ。
何が言いたいかというと、日本の土地のデフラグが始まるだろう、ということだ。
他にも災害対策の必要性という部分もある。最初はマスコミでそのことを前面に出してくるだろうと思う。
そして結果的には、細かい木造住宅みたいなのは都市から一掃され、道路が整備され、みな巨大な建造物が林立するような町並みに変わっていくだろうということ。そうなると、今、半端な家を買っても30年後に、そういった巨大なタワーマンションとの価格競争になる以上、どうみても資産形成上は不利、ってことになるような気もするのだよね。
さらに言うなら、国を運営する人たちからみたら、日本の資産をいわば、オリンピックでも何でも使って「近代化」させない限り、アジア地域の経済的な中心地としての位置を保てないという側面もある。
すでに中国を中心とするアジア地域の都市は、人口的には東京よりも巨大なところがあるし、東京より高い建物をばんばん建てている。そういったところよりは、政治の安定や個人の権利を保障した法制度を持っているというメリットのある国の都市として、魅力的には映るけれども、一方でぼろい建物で、しかも巨大地震が来てすべてが崩れるかもしれないという形にも見える。
日本の金持ちのみならず、世界の金持ちが投資先を探しているから、その趨勢にはおそらくこの国の都市も抗えない、けど、それによって逆に美しくて機能的な、超先進的な都市に変貌するチャンスになるような気もしないでもないのだけど、どうだろうか。
2015年1月3日土曜日
2015年 あけましておめでとうございます。
さて、お正月に書くべきことは「今年の抱負」だろうと思うので、それを考えてみよう。
2014年は、平均して見れば、なかなかに良い年だったと思うのだけど、一方で課題もあった。本当に早い毎日でもあって。手術もしたし、仕事ももちろんがんばったし、引越もした、ひとつの区切りになる年ではあったのですよ。
まあ、仕事ができて、ご飯を食べるだけなら、このままでも良いのだけど、それだけじゃいけないな、なんて思う日常が、今年の後半だった。
そんなモヤモヤしてた今年の後半、最後の12月に友人たちと約束してた旅行に出かけたのが、広島だったのだけど、やっぱり普段と違う場所で違う行動に出る、というのは色々と発想や気分転換になった。
前回のお正月のキーワードが「仕事は神事」であるならば、今年のお正月のキーワードは「練度というパラメーター」じゃないかと思う。
広島から呉に向かって、色々と見て回ってまず思ったことは、この日本の歴史においては、今も連綿と明治以来続く、日清、日露、そして太平洋戦争、高度成長期に流れる歴史が一本の線なんだなっていうこと。
今僕らが生きている日本の社会っていうのは、1945年に焼け野原からスタートしているような、それ以前の記憶を無理矢理に忘れようとしているようにも見えるけど、今、豊かなこの社会の実現がいきなりできたわけではなくて、それ以前にあった人々が持っていた、高い練度が実現させていると思うのだよね。
それはつまり、いみじくも日本の発展を支えたのが、戦前までに培った戦争のためのテクノロジーやロジスティックスなど、さまざま能力を継承したこと。呉に行って大和ミュージアムに行くと、いかに戦艦大和の建造技術がその後の造船業や重化学工業の礎になっていったかがわかるし、自動車も、カメラも、Made in Japanを支えたのは、明治以来、戦争に鍛えられた技術の数々であったりする。あとは戦争技術ではないけど、新幹線技術だって、その源流は満州における特急あじあ号にあったりもするよね。
戦争が起こるから科学が発展する、という説を、たまに言う人もいるのだけど、もちろんそれはおかしくて、例えば広島に原爆が落とされなければ20万人以上の人々が死なないで済んだ。もし、それによって亡くなられた人たちが生き続けていたら、もっとさらに今よりもその分だけ進んだ社会を実現できたはずだからね。この政治的、軍事的な失敗によって、きっと多くの天才をも失ってしまったと思うよ。
この社会において、豊かに暮らそうと思えば、富を生み出さなければならないのだけど、その富は高い練度、つまり理論と実践とそれによって培われた高い経験値、から生まれる。
今、社会は経済成長をさせるためにアベノミクスで大胆な金融緩和をやっているのだけど、この政策では簡単には景気は上昇しないと思う。実はお金は社会の発展には二次的な要素でしかないから。人が動くにはカネが必要だけれども、カネをかけて何かをするという計画、あるいはカネをかければできるっていう投資対象物(ヒトやモノ)がいなければ、かけたカネが無駄になるから、結局、投資や発展には向かわない。物価が上昇する分、中間コストの圧縮とか、ロジスティックスの効率化は進むかもしれないけどね。
今の技術だと、いくらお金をかけても、どこでもドアやタケコプターは作れない。
景気が良くなるとすれば、社会が次の段階に移行する時に良くなると思うんだ。
いずれにしても、少しでも練度を高めて、社会に貢献するとともに、自己実現を図る。結局は抱負というか目標はそこに行き着くわけだけれども、まずはカラダとアタマをめいっぱい使い切る、ということを目標にしたいと思った。
望むべくは、そこで新しい何かに出会えるといいな。
2014年12月19日金曜日
広島へ
広島ってお好み焼きや生ガキとか、有名なのはその辺ぐらいで、あまり観光するっていうスポットじゃないかもしれないのだけど、毎年、大学時代の友人たちと旅行に行くようになってから20年以上、そろそろネタも尽きてきた感じで、この場所がチョイスされた感じで行ってきた。しかし、まずは最初の日は山口の岩国空港へ。錦帯橋を観光。
そして一緒に友人たちと行動して宮島~厳島神社へ。
そして一緒に友人たちと行動して宮島~厳島神社へ。
そんでもって広島の市街は結構発展している。町並みは割とすっきりしていて都会的な街で、規模としては名古屋よりは下かなーっていうぐらいの発展度合い。あとの特徴は街の人たちがとてもエネルギッシュなことで、まっすぐな気の強さを持った感じの人が多い印象だった。例えばヤクザっぽい人であったとしても、あんまり屈折した感じはしない。
二日目は単独行動で帰るときに各自空港に集まる、という感じだったので、いつも遠出するときにはチョイスするロードスターを今回も借りることにした。いつものNC2。とってもかっこいい。このクルマ大好きだよ。
結論からいうと、旅としてはとっても楽しいものだった。
広島市街から東進。最初、まず鎮守府で有名な、あの呉に寄ったのだけどね、ここには、僕は知らなかったのだけど、大和ミュージアムっていうのがあって、1/10の戦艦大和の模型があって(結構でかい!)、あと本物の零戦62型が展示してある。
62? 62型ってレアじゃない?戦闘機というより攻撃機(爆装機)らしい。靖国神社の遊就館には52型があって、これは割とメジャーだけど、この62型って小学生の時とか零戦のプラモを作りまくってた自分でも「62型??」って感じだったぐらい。
で、大和なんだけど、結局、そこには大和が造られるようになったいきさつとかが詳しく資料が展示してある、まあ要するに、大戦前に軍縮条約があって、そこで日本の軍艦は数を減らさなきゃいけなくなって、量より質を目指した結果、ものすごい超弩級かつハイテク艦である大和が誕生したのだけど、結局、あまり活躍することもなく沈められてしまった(しかも火薬庫が爆発したせいで船体は海の底では割れてしまっている状態)けれども、大和を造るための様々な技術、加工技術のみならず生産工程技術、みたいなものが、戦後の高度成長の礎になった、みたいな話が綴られているのだよね。
こういうのを見ると、日本人っていうのは本当にすげーな、と思ってしまうわけなのだけど、一方で、今も日本人が放つオーラというか、礼儀正しさ、とか優秀さ、規律を守る、とかは社会としてはプラス評価な部分も、どうも軍隊っぽい臭いにも感じるのは、明治以来のこういう歴史のせいなんだよなーなんてことも、思ってしまう。
また歴史書に出てくる、経営層がダメでも現場が優秀で、色々なんとかしちゃうというアレなんだけど、結局偉い人があんまり責任を取らないという、あの伝統。原発が爆発しても、東京電力の社員にはちゃんと年金がでちゃうあの体質も、そこは改善されてない感じだよね。
高度成長期を実現したのは、大戦時までに培った、実際に船を造る能力、ロジスティックス、工場生産技術、高度な計算や工程管理をできる人材を確保できたことが勝因で、それこそが日本を経済大国に押し上げた本物の力であって、個人的には残念なことに、日本においては、その能力が戦争によって培われた部分がれっきとして存在している現実があることなのだよね。(だから、小学校からずっと続いた教育も、どことなく、そういうノリなんだろうと思う。)
まるで日本民族というのがひとつの生き物であるかのごとく、一部の命を犠牲にして、それによって進歩を勝ち取っているような、そんな歴史の残酷な部分も感じてしまった。
さて、呉を後に。折しもその日は日本全国的に雪の日で、ニュースを見るとあっちの地域では停電しただの、こっちの地域では電車が動かないだの、そんな一日だったみたいなのだけど、ここは瀬戸内海地域。中国地方と四国地方に挟まれて、両方の地域の山並みに攪拌された雲が青空に映えていて、山に残っている紅葉と相まって、てとても美しかったよ。
天気はとても強い日差しの晴れ。但し、時折雪が溶けたような冷たい雨が霧雨のように降ってくる感じ。そんな天気の田舎道を寒いのにジャンパーを着込んでフルオープンでスポーツカーで流していくっていうのは、なかなかのぜいたくだと思うんだよ。
そんな185号線を走っていると、地元の生牡蠣直売所があって、きれいな海もあいまって、とってもおいしそうだったのだけど、1日目にお好み焼きと牡蠣料理とをいっぱい食べたのと、ノロウィルスが怖くて結局手つかずだった。
今思えば、惜しいことしたかななんて思ってしまった。
また機会があったら行ってみたいな。
2014年9月27日土曜日
東京タワーには霊力が宿ると思う

日本の各地にはパワースポットと呼ばれるところが色々あるけれども、なんだか東京タワーも日本における最も強力なそれのひとつのように感じる。
東京の夜景は上海とかと見比べると少し地味にも感じられるけども、空や空気はきれいだし、 むしろ大人っぽくていい。
そんなこの東京の中心にある、ちょっとエッフェル塔にも似た、このタワーの特徴は、この朱色のような赤じゃないかと思う。
かつて、大規模な戦争によって焼け野原になり、多くの人たちが亡くなったこの都市で、この神社の鳥居にも似た朱色に映える巨大なタワーは、その後起こった朝鮮戦争のあとに大量に残った米軍戦車のスクラップを材料にしているそうだ。
この場所の中心に、この色で、この形でそびえ立ち、そしてこのタワーが建っている間は日本は戦争に巻き込まれずに生き抜いてきた。ある意味戦後の平和の象徴でありながら、その材料は人々の血を吸ってきた兵器を材料にしているという。
そんな事実を知ると、ちょっと風水的なものもあるのかな、なんて思ってしまう。
霊力を感じる巨大なタワー。
山の中にある神社のような清々しさはないかもしれないけど、別の意味でのパワーは間違いなくあるよね。
2014年7月6日日曜日
上海へ
上海は、流入してくる人々の人口を加えると、2000万人を超えるのだという、東京よりもさらに巨大な都市。
今まで全然意識していなかったけど、これは東アジアでも巨大な都市間が飛行機でたった3時間程度のところにあるという意味は、普段意識はしていないのだけど、実はすごく大きい。
実際、飛行機に乗って映画を見ても、飛行機が飛び立ったらすぐに見始めないと、すべて見終えないというぐらいの近さだったりする。 これだけの都市、多くの人々が住む場所をつなぐのに日本語と英語、中国語を話して、その巨大な需要を持つマーケットを泳げば、実は金儲けというのは割と簡単なのかもしれないね。
実際、飛行機に乗って映画を見ても、飛行機が飛び立ったらすぐに見始めないと、すべて見終えないというぐらいの近さだったりする。 これだけの都市、多くの人々が住む場所をつなぐのに日本語と英語、中国語を話して、その巨大な需要を持つマーケットを泳げば、実は金儲けというのは割と簡単なのかもしれないね。
町並み
街は全体的にギラギラしていて、たくさん走っているクルマはバンバン飛ばして走る。歩行者がいてもお構いなくどんどん進んで来るので怖い。
クルマはドイツ製が多くて、タクシーはフォルクスワーゲン、ついで日本車、中国車、韓国車といった感じ。大量の自転車をイメージする中国なのだけど、ここ、現代の上海では電動バイクが多数派で、日本でいうところの「原チャリ」が「電チャリ」になっている感じ。
大八車の前に自転車が付いている乗り物も、実は電動だったりして、カオスなイメージ。
かつての租界と、急速な発展、ものすごい数の人、エネルギー。
とても雰囲気のある場所だよ。
まだまだ発展中の上海。再见!
2014年6月18日水曜日
6月、梅雨の合間・・・
2014年4月3日木曜日
増上寺と春
近所のビルの屋上から、東京タワーと増上寺。
お地蔵さんたちと桜。
お寺の鐘と桜。
ある春の日、桜の見える近所のビルの屋上で、身近な人たちとお弁当を食べた。
そして女性たちがお互いケータイで写真を撮りあう姿を眺めていた。はい、ポーズ。
あとでふと思い出したりするのかな?そんな一日。
2014年3月27日木曜日
「狂う」ということについて考えてみた。
そもそも「狂う」とは何だろうか?ぱっと考えてみれば、狂うとは、その主体の行動が、きちんとした因果関係に基づかなくなる、ということではないだろうか、と思う。
例えば街で誰もいないはずなのに一人で何かに対して怒っていたり、ブツブツ言っている人がたまにいるけども、そういう人は「狂ってる人」として扱われる。
しかし同じように携帯電話を使いつつ何か(例えば商取引などで)それに対するわかりやすい理由などの単語を織り交ぜながら怒っていれば、(どうして金を払わないんだ!的な。)それは他者から見て狂っているとはみなされにくいだろう。ああ、何かお金のやりとりで不実なことが起こったのだな、という予測が立ち、これが因果関係だと推測できるからだ。
さて、よく天才と狂人は紙一重とされるけれども、それはどちらも一般の人々から見て、原因と結果の因果関係が捉えにくいからだろうと思う。狂人は妄想、つまりこの世と乖離した原因に基づいての行動を起こすためがゆえに狂っているとみなされ、結局、何を生み出すことできずに終わるわけだけれども、一方で天才は常人の理解を超えた法則の知見に基づいて何らかの問題に対して回答を出すため、一時的には狂人と同じような扱いをされることはあっても、それは単に一般人の理解を超える部分では自然法則に合致しているから、発明や発見、あるいはその他社会に対する利益を生み出し得る存在となる。
ところで自分が小学生の時、父が手製の童話を作ってくれたことがある。主人公はハチとハエの二匹。二匹はとても仲良しなのだけど、ふたりでちょっと遠くに遊びにいったついでに人間の家の中にとじこめられてしまうアクシデントに出会うという、おはなし。
そして、頭のいいハチは、できの悪いハエにこう言う。
「いいかい、こういうときは明るいところが出口なんだよ?」
そう言って、明るい方向に向かって飛んでいくものの、そこにはよく意味のわからない存在である窓ガラスのおかげで、外に出ようにも、どうしても外に出ることができない。
そこにはもう外が見えてるのに、どうしても出ることができない。
そんな様子を見ていたハエは、あまり頭は良くないのだけど、とにかく暗いところにも色々と突っ込んでいく。あちこちぶつかったり、頭のいいハチに「そんなところに行ったって外に出られっこないよ!」などと言われつつも、煙突の通路を上っていって、ついにはハチを連れて外に脱出する、というストーリーだ。
(初稿では、ハチはとうとう出られずに死にました!笑 ちゃんちゃん!だったような気もするけど、よく憶えていない。)
ここで思うのは、仮に狂人が狂人であっても一種のランダム攻撃(気合いともいう)が功を奏して、考えの浅い知見を突破することもあるんじゃないの?という、今、大人になった自分を「うーむ」と唸らせる部分が確かにあるのだけれども、その時はどうしても感情移入しにくい存在のハエが栄光の主人公ということで、自分のほか、母や弟からも、あまり良い評価を得られなかった父がいたのだった。
単に本当に頭が狂って壊れて完全にクルクルパーになるのはよくないけれど、浅い知識に最後までこだわって終わりになるのもよくないんじゃないの?
たまには動物的なチャレンジ精神も必要かな、なんて思わわせるエピソードだったりする。
2014年2月9日日曜日
すごい雪
2014年1月22日水曜日
人生どうする?
「チェシャにゃんこちゃん」とアリスは、ちょっとおずおずときりだしました。そういうよび名を気に入ってくれるかどうか、さっぱりわからなかったからです。でも、ねこはニヤニヤ笑いをもっとニッタリさせただけでした。「わーい、いまのところきげんがいいみたい」とアリスは思って、先をつづけました。「おねがい、教えてちょうだい、あたしはここからどっちへいったらいいのかしら」
「それはかなり、あんたがどこへいきたいかによるなあ」とねこ。
「ならどっちへいってもかんけいないじゃん」とねこ。
不思議の国のアリス
Alice's Adventures in Wonderland
ルイス・キャロル 著
Alice's Adventures in Wonderland
ルイス・キャロル 著
でも、ある日思ったんだよね、未来はどうなるんだろうと思っていても、自分で動かない限り何かに流されてしまって、ただ人生、人のいいように流され続けるだけというか。
だから、自分で決めないといけないのだよね。
ただ自分で決めるというプロセス、自分のものの考え方って、自分ですべて思いついたように思っていても、実は昔一緒にいた人の行動をコピーしていたり、本を読んだりしてその言葉が影響していたり、外部から吸収されたものが深層意識に沈んでいて、それが「なんとなく」今の行動を指示していたりする。
とにかく、自分がその行動を何となく選ぶとき、それがいったいどこから来たのだろうか?って考えてみるのは、とてもおもしろい。
嫌いな人への反発っていうのはすごくあると思うのだけど、反面、その嫌いな人と同じようなことをしてないか、あるいはそのせいで本当にやりたいことが何となく億劫になってできなかったりしないだろうか?
でもそれは、単に大した手間ではないけれど、恐怖心の刷り込みみたいなもののせいでできないのかもしれないよ。
ならば、それは克服すればとても気持ちのいいことかもしれない。
とにかく、自分自身が何で今それを選んでいるかということを、ちょっと一回自分でおさらいしてみて、何か澱んだ感じがしたら、それはおそらく克服するべきものじゃないかと思ったのよね。
で、「こうしたい」って決める、みたいな。
で、「こうしたい」って決める、みたいな。
まとまりませんが。
2014年1月19日日曜日
IT、SNSで人は幸せになれるだろうか
プラトンの『パイドン』ーーー(中略)ーーーには、エジプトでのプロメテウスとの同格神であるトート神についての、愛すべき神話がある。古いエジプト人の言いかただと、書いたことばを指す用語は、文字どおりには、”神々のことば“である。トートが、文字を書くという彼の発明に関して、タムス神と議論している。タムスはアモンとも呼ばれているが、この神々の王はトートに、左のように文句をつけている。
このおまえの発見は、学ぶ者の心に忘れやすさを作り出してしまうであろう。なぜなら彼らは、自分の記憶を用いなくなるであろうから。彼らは外部なる書かれた文字を信頼し、彼ら自身で思い出さなくなるであろう。おまえが発見した特効物は、記憶のではなしに回想の助けであり、おまえは弟子どもに真実ではなく、真実の類似物を与えるに過ぎない。彼らは多くのことを聞く者となるであろうが、何事も学ばないであろう。彼らは博識のようにみえるが一般に何ごとも知らないであろう。彼らはうんざりさせられる仲間となり真実のない知恵をひけらかすことになるであろう。
「エデンの恐竜」 第8章 脳の未来の進化(カール・セーガン著)
しかし一方で、そのことが今の社会に生きる人たちの情報が、あまりにも強力に処理され、人々はそれぞれ自分自身の社会への影響力というものが簡単に数値化されてしまうということにもなった。ものの考えはいくらでも伝えることはできるようになったのだけど、自分自身から紡ぎ出される自分自身の考えというものが、さして社会において重要視されなかったり、あるいは自分の意図しない無邪気な行動が多くの人からの大バッシングを呼ぶという、こんなはずじゃなかったという状況を引き起こしたりもするようになった。
神話では、プロメテウスは火だけではなく、文字や数字を与えたとされていて、そのおかげでひどい目に遭う。またゼウスが神々よりも人間が強くなることを恐れ、災厄をもたらそうとしたりもするそうだ。
技術というのは諸刃の剣であって、それ自体は無色透明で、文字や炎もそうであるように使い方を誤ると災厄をもたらすもの。
しかし一度得た技術は、後戻りをすることなく、日々進歩を重ねられていく。あるいは何かのきっかけで文明が退化するということもあるのかもしれないけれど、結局は、進歩をさらに進め、よく理解して、きちんと向き合ってうまいこと使いこなしていく、というのが最善の回答じゃないかと思った。
2014年1月1日水曜日
あけましておめでとうございます。
あけましておめでとうごさいます。
今年も家族で初詣に築地本願寺へ。
帰りに有楽町まで皆で歩くことに。
銀座と日の丸と。
周りはブランドショップがたくさんある。
歌舞伎座。昨年は工事していたのだけど、きれいになってさらにオフィスビルもすごいのが建った。
・・2014年。昨年末に見てきた遷宮後の伊勢神宮を見てみたり、最新の新幹線に乗ってみて感じるものがあった。
その中で人の仕事の本質は「神事」なんじゃないかなと思ったのね。
日本人は自然と調和して農作業や漁業、あるいはサービス業に従事してきたわけだけど、そこには連綿と続く連続性と自然との関わり合いや、時に村社会とも批判されるチーム作業が存在してきた。で、そこにはそれなりの美学が存在し、必要とされたんじゃないかと。
例えば、仕事に関する知恵やノウハウを大事に継承することもそうだし、いわゆる一時の金儲け主義、あるいは逆に吝嗇に陥らず、長期的な視点に立って、適切なところには適切なコストをかけることができるというのもひとつの美しさかなと。
そんなわけで今年はそんな色々と美しさを念頭において考えてみたいと思う。
今年も家族で初詣に築地本願寺へ。
帰りに有楽町まで皆で歩くことに。
銀座と日の丸と。
周りはブランドショップがたくさんある。
歌舞伎座。昨年は工事していたのだけど、きれいになってさらにオフィスビルもすごいのが建った。
・・2014年。昨年末に見てきた遷宮後の伊勢神宮を見てみたり、最新の新幹線に乗ってみて感じるものがあった。
その中で人の仕事の本質は「神事」なんじゃないかなと思ったのね。
日本人は自然と調和して農作業や漁業、あるいはサービス業に従事してきたわけだけど、そこには連綿と続く連続性と自然との関わり合いや、時に村社会とも批判されるチーム作業が存在してきた。で、そこにはそれなりの美学が存在し、必要とされたんじゃないかと。
例えば、仕事に関する知恵やノウハウを大事に継承することもそうだし、いわゆる一時の金儲け主義、あるいは逆に吝嗇に陥らず、長期的な視点に立って、適切なところには適切なコストをかけることができるというのもひとつの美しさかなと。
そんなわけで今年はそんな色々と美しさを念頭において考えてみたいと思う。
2013年11月4日月曜日
【映画】スティーブ・ジョブズ
実は、この映画「スティーブジョブズ」には批判も多いことは知っていたので、あまり期待しないで観に行った。
しかし、役者たちも実在した人物にすごい似せようとする努力もしているし、時代感が絵としてうまくまとまっていて、それを目で追うように眺めているのが楽しくて、結果として映画としては楽しめた。
物語前半、70年代のアメリカの風景。強国だったはずのアメリカにはどこか閉塞感や空しさが漂い、美しいけど、どこかもの悲しい、軽い絶望の世界でもあった。舞台は中でも自由な雰囲気の西海岸。そこにはLSDなどのドラッグの存在もあって、ジョブズもそれを手にするシーンがある。
ある日、ジョブズが仲間たちと木漏れ日の光の美しさを堪能して、その後、「なにかを見る」シーンがあるのだけど、ひょっとしたらLSDを使っていたのかな、と思える部分である。
LSDと言えばティモシー・リアリーなのだけど、彼はLSDを使った「回心(宗教的に感じる心の大転換)」によって、刑務所の受刑者の再犯率を下げようとしていたことがある。つまり何か、人生観を根底から覆す何かの精神的な体験をすることで、新しい人生を切り開くというやり方なのだ。もっとも、今はそんな薬物で精神そのものを乱暴かつ強引にいじくり回す方法は、法で禁じられている。
この映画を観ると、あの日、ジョブズが見ちゃった、あの「なにか」は、こういう、あの時代特有の方法で得たものなのかな、と思ってしまったりもする。
さて、この映画、「あれ?禅は?ピクサーは?NeXTの話はこれだけ?」とツッコミどころは満載ではあるものの、そこはまあ、それとして、ああここが違う、これもなんかおかしいと思うより、あの時代から今の時代に続いているんだという、トムハンクスのフォレストガンプ的な楽しみ方が正解だと思う。
映画「フォレストガンプ」は、アメリカの一般人の歴史をなぞって自らの人生を振り返る楽しみがあるようだけれども、時代も違うし、アメリカ人ならぬこの身には、その映画を観るとき、自分の人生には適用できないというちょっと諦めにも似た感情が漂う。
しかし、この映画「スティーブジョブズ」なら、いわゆる日本のパソコン少年にも、ちらっと出てくるアップル2の当時のライバル、コモドールのPETなどを見て、「ああ、あったよねー」「昔読んだマイコン雑誌に(特に月刊アスキーとか)載ってた広告や記事のアレだ!」という、今となっては懐かしい時代を思い出させるとともに、その時代からずっと、いろいろなパソコンやらデバイスやらが、人々の試行錯誤を経て、連綿と、今現在にそのままつながっていることを実感できる。(とは言え、潰れた会社のいかに多いことよ・・)
今の日本も、70年代のアメリカのように、将来にどこか天井を感じて絶望感があるという意味では共通しているところがある。だからジョブズがテクノロジーで、あの日見た「なにか」を実現するために試行錯誤し、製品を作り出し、悪戦苦闘していく姿は、例え映画という現実に似た虚構であったとしても、色々と何かを感じるものでもある。
そして人々が見ている将来の夢というのは、どれも儚いものが多い。
しかし、どっこいムーアの法則だけは順調に適用されるという奇跡は続いていて、かつそれが時代を紡いでいることに思い至ると、妄想の産物であるはずのスタートレックやHAL9000的な世界が今後待っているかのようでもある。
しかし、どっこいムーアの法則だけは順調に適用されるという奇跡は続いていて、かつそれが時代を紡いでいることに思い至ると、妄想の産物であるはずのスタートレックやHAL9000的な世界が今後待っているかのようでもある。
それより今あるもの。それはあの時あったものが元になって、今あるなあ、みたいな。
自分の人生はどんなだっただろうか?
おまけ:
この映画、彼の相棒ともいうべきもう一人のスティーブであるウォズニアク氏のいい人ぶりが、なんかほっとさせられる。ジョブズがわがままでイケメンでかんしゃく持ちののび太くんなら、ウォズはおっとりとしたドラえもん(四次元ポケットの代わりにすごい頭脳で、ある種の妄想を現実に動くロジックにしてしまう)のようでもある。
この映画、彼の相棒ともいうべきもう一人のスティーブであるウォズニアク氏のいい人ぶりが、なんかほっとさせられる。ジョブズがわがままでイケメンでかんしゃく持ちののび太くんなら、ウォズはおっとりとしたドラえもん(四次元ポケットの代わりにすごい頭脳で、ある種の妄想を現実に動くロジックにしてしまう)のようでもある。
かつてウォズニアクは米国でフェアレディZのCMに出ていたのだけど、チラっとでもいいから、映画の中で、あの「Z」を見たかったな。ここ、日産の広報が、どこかがんばれるところがあったんじゃないだろうか(笑)
2013年10月28日月曜日
私家版・夢十夜
自分は、たまに巨大な構造物の中でさまよう夢を見ることがある。というより、夢を見るときはたいていそんな感じのものが多い。
建物はどれも大きなもので、小さなもので団地からデパートのサイズぐらい。あるいは高いビルだったり、駅みたいなところだったりするぐらいのサイズ。それぐらいの大きさの構造物が通路や階段でつながっていることもある。
共通しているのはサイズのほか、後は一部が壊れていることが多いということで、何かの爆発があってガラスが床に散乱していたり、壁が崩れていたり、落書きがあったりすることだったりする。
今までに印象的な夢はいくつかあるのだけど、ひとつは巨大な建物の中に人々が暮らしていて、自分もその中の住人の一人だったりする。で、なぜか自分だけが、そこが巨大な精神病院であって、そこから隔離されて出ることができないことを知っているのだけど、誰にそれを伝えても「まさかあ」と言われ取り合ってもらえず、むしろその中での生活が当たり前に進んでいくというもの。
しかし、決してそこからみんな出られない。でもそれが誰も不思議に思わないという夢。
もうひとつは、それはまたその世界にぜひ行ってみたいと思うのだけど、そこは巨大なデパートみたいな建物が舞台。地下にボーリング場があって、さらにその地下に大きな書店もあったりする。
店には、実は通路みたいなところがあって、またそこに巨大な書架が地下に向かって薄暗く何十メートルも続いている場所につながっている。そしてその書架は、はしごで降りていけば、収められている本が読むことができるようになっていた。
そして、その書架にある本を読むと、高さに応じて時代ごとの本が収めてあって、はしごで降りて下に行けばいくほど未来の本を読むことができるのだった。
夢の中で本を読むという行為は、脳のその部分が動いていないせいか、字を読むことは読めるのだけど、それをさらに記憶するところまでなかなかできないようだ。しかし、その時はぱらっと読んで「ああ、この話は知ってる」とか思っていて、さらに未来が知りたくなって、はしごをどんどん降りていけば、降りたその分だけ未来のことが書いてある本を出会えるということを実感し、ワクワクしていた。
「どうせなら、もっとずっと下の方まで降りていこう」
自然にそう思って、はしごを降りて、どんどん下にいくと、最後、一番下まで着いてしまって、床のようになっていた。
よく見るとそれは氷のような感じで、その氷が溶ければさらに下の本を読むこともできそうだった。
つまり、書架は続いているのだ。
「ああ、ここから先の未来は決まってないんだね」
何故かそう思って、ならばと、一番下の本を手にとって開いてみたら、日本語のような日本語じゃないような、よくわからない文字で記述されていた。ちょうどこんな感じ:
未来はある程度決まっていて記述もできるけど、その頃の日本語は、かなり違ったものになってるのか、と思って目が覚めたのだった。
参考リンク:
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